森が都市を変える

「森を核とする文明」を目指して

石油が大都市周辺の森を救った
 私が生まれたのが1937年。小学生から中学生の頃、今は亡き父の植林の山仕事を手伝うために、京都市北白川の自宅から近くの山へ足しげく通った。父は林業家ではなかったが、戦後のひもじい食料事情のなかで、家族のために山林を買い求め、そこに猫の額ほどの畑地をつくった。畑地の周りでは、樹木を切り倒し、スギ・ヒノキを植林した。1950年前後だから、すでにそのときから半世紀が経過している。今、その小さなスギ・ヒノキの林は、父の存命中に手入れをしただけで、そのままの姿で放置されている。私を含めて残された家族の誰もが、北白川の山とは無関係に過ごすようになったからだ。スギ・ヒノキの人工の林は、陽の光も地面に届かず、黒々として静まり返っている。むなしい50年の時間に憤っているのか、悲嘆にくれているのかわからない。
 一方、スギ・ヒノキ林以外の急斜面地の雑木林は、この50年間絶えることなく四季の美しい姿を孤高に映し出してきた。京都の東山山系の一角にあるこの雑木林は、その峰に立つと京都を眼下に見下ろすことができる。千年の都は、豊かな緑の山系の中に悠久の時を吸って広がっていた。しかし、この緑豊かな山系も、大正期には、その多くがはげ山であったことを、父から教えられた。都市の周辺の山林の多くで、燃料である薪炭のために樹木が過伐され、文字通り根こそぎ森林から持ち出されたからである。千葉徳爾の『はげ山の文化』を読んで愕然としたことを今でも鮮明に記憶している。今は緑で覆われている六甲山も、神戸の港から花崗岩の岩肌を晒して真っ白に見えたと言われている。大都市周辺から見る山の多くが、森のない状態であったとは想像できなかった。
 その山林では、懸命な緑化・植林の結果、今見事に緑がよみがえっている。一方、緑がよみがえったもう一つの原因は、石油・石炭等の化石燃料の出現である。木材等の薪炭に代わって、エネルギー資源を化石燃料に依存する社会になって、森林への薪炭需要が急激に減少した。今日、大量生産・大量消費・大量廃棄をもたらし、酸性雨や地球温暖化の原因にもなった化石資源が、大都市周辺の山林の緑化回復に寄与したという事実は、まさしく歴史の皮肉であろう。

人間の欲望に翻弄された森
 父の山仕事を手伝ってからの50年は、地球規模で森林が破壊され、環境が悪化した点で、人類史上特筆されるであろう。毎年日本の面積の四分の一に当たる世界の森林が地球上から消えていった。その原因は、言うまでもなく、人口爆発である。1950年代に約25億人程度だった世界の人口は、現在、60億人。50年の間に、実に2・5倍になった。地球のおよそ45億年の歴史の中でも、これほどの短期間で個体数が増え、しかも地球上のあらゆる気候帯、ほとんどの陸上域にまで居住地域を展開している生物種は、他に例がないだろう。20世紀の後半に生きてきた私たちの世代は、高度に発達した文明という衣を纏って、極めて異例の繁殖を成し遂げた時代を築き上げてきたのである。しかし、そのことは、人類が地球に計り知れない負荷をかけ続けてきた事実と裏返しの関係にある。
 記憶のかすかな陰影にある100年前のはげ山の風景。50年前に遡る少年の頃のスギ・ヒノキの人工の森。40年前に成人して、なんの疑念もなく見ていた都市周辺の回復した森。そして、1960年代以来今日まで、日常生活の中で身近に頻発した都市開発によって破壊される森。さらに、私たちの日常生活を支えるために伐採される、世界の多くの森林。発展途上国の貧困が助長する、さらなる森林破壊。この50年、森林は私の中でその姿をめまぐるしく変えてきた。
 私にとって森とは何か。半世紀を越えて生きてきた私にとって、森は悠久の時間を刻む存在ではなく、私たち人間の欲望を映しこむ鏡面でしかなかった。森は、私にとって、人間の欲望に翻弄される自然界の悲しい巨体にしか映らなかった。このような短時間で、森の極端な変貌を体験するのは、まさしく私たちの世代だけであろう。父からの言い伝えも含めて、記憶と現実をつなぐ100年の森の変遷。そこには、工業化、都市化のなかで、人間に翻弄された悲しい森の姿が浮かび上がる。
 人間活動が排出したCO2による温暖化等で地球環境問題が深刻になり、私たちの生存が脅かされている。CO2を吸収して酸素を吐き出してくれる森。それなしには人間は生きられないのに、私たちは森を破壊している。森に対するこの混乱ぶりはなにか。今こそ、私たち人類は、森との新たな関係を構築しなければならない。かけがえのない地球の生命の仲間として生きるならば。

時代が要請した森の調査
 1968年、私は大阪で造園設計事務所を自ら立ち上げ、2001年に経営の責任から身を引き、現在、大学で教育と研究に従事している。造園家として活動した約30年間は、20世紀の終盤から21世紀のスタートにあたる。この間に従事した仕事は、1200くらいになる。
 それらの仕事の中で、森林に関するものは、四分の一くらいある。造園の仕事といえば、一般的に、庭園や公園等をつくることと思われがちだし、日本庭園に見られるように、精神的な風景等を意匠として表現する世界を想起されるかもしれない。しかし、クライアントから私に与えられた造園のテーマの多くは、そういった従来の造園の枠組みから外れていた。森の仕事が多かったのは、おそらく時代の要請であったのであろう。
 1975年前後に、和歌山県、奈良県、三重県合同で実施された紀伊半島全域の森林計画の策定では、中部圏・近畿圏の大消費地を間近に控えて、過疎化が進行する巨大な森林集積のある林業地を森林空間としてどう活用するかという大きな課題があった。
 屋久島の森林・林業・森林空間に関する調査研究では、小さな島の中に、亜寒帯から亜熱帯までの異なる気候が織り成す2000mに及ぶ連続した植物の垂直分布によってユネスコの世界自然遺産に登録された、世界でも稀な自然の価値を、林業の視点から森林そのものへの視点へと見直すことにあった。
 北海道の野幌自然公園計画では、開拓で開発された森林地域に残されていた自然生態系の保全とその公園的活用の方途を探ることであった。
 北海道から屋久島までの広範囲にわたる異なる森林計画であったが、そこに共通していたものは、海外からの大量の木材輸入によって、不振の兆しが顕著になった国内林業地を、木材生産地として見るだけではなく、森林そのものの価値や、風景や森林浴等を楽しむ、森林レクリエーションを提供する森林空間としての新しい価値を浮かび上がらせることであった。林業地から森林空間へ。それは、都市化によって増加し続ける都市住民の要請に応えるものであった。
 さらに、都市住民の森への要請は、「歴史のある森」「伝統の森」「精神の森」への関心に向かっていた。1960年から70年代にかけて、農村から都市への大移動が始まっていた。都市は巨大化し、都市周辺の里山の多くがニュータウン等の開発のために姿を消した。そして、里山に代わって都市公園が整備された。しかし、これらの公園の多くは、森を拒んだ。手入れの必要な森、見通しのきかない森、お金のかかる森は、国や自治体では維持できないというのが理由であった。都市公園は、都市化によって失われてゆく豊かな自然の代償とはならなかった。
 人工的な緑の少ない都市にあって、豊かな自然に満ち足りない都市住民の向かう場所は、慣れ親しんできた伝統的な緑であった。名所の緑、行楽やハイキングに訪れる近くの緑であった。また、生活の身近なところにある鎮守の森は、故郷を離れて都市に移住してきた人にとって、幼い頃にすごしてきた記憶の森の延長にあった。鎮守の森の100年、200年を悠に超える長寿の森。建築で言えば5階くらいの高さのある巨樹・巨木。都市公園にはない豊かな郷土の樹木群が固まりとなって、生活のごく近くに存在していた。そこでは、祭りや年中行事による地域の結束、歴史の伝承等のコミュニティ・スピリットを醸成することができた。これらのどれもが、近代的な都市公園には欠けていた。鎮守の森の調査研究は、歴史の森が都市住民の心をつかむ大きな要素であったことを改めて知る機会となった。

森への想いが世紀を超えた森をつくらせる
 こういった森の調査研究は、時代の急激な変化において、森の持っている本質的な意味を問いかける端緒となった。しかし、これらの調査研究は、森林を客観的に調査し、それらの置かれている課題を抽出し、その病状を診断し、処方箋を描くことであった。この作業は、社会におかれた森の厳しい現実を浮かび上がらせはしたが、誰もが納得する学術的根拠や客観的な視点を求められるものばかりであった。しかし、本書で取り上げる三つの森は、私の森への想いを注ぎ込める対象であった。そこには、客体としての森ではなく、自己の分身としての森の姿があった。
 文明に侵略された森の悲痛な叫び。失われた森への回顧。そして再生されてきた森との出会いとその喜び。小道を辿って森に分け入った時の、威厳のある森への感動。そういった様々な感情を森は私に抱かせてくれた。
 私は、東北や北海道の森が好きで、よく歩きに行った。北海道の森には、アイヌ人の匂いがした。東北の森には、宮沢賢治の愛した森があった。それらの森では、森の生態系といった理科学的、生物学的な事象ではなく、森の音、匂い、色が私を捉えた。神居古譚の森では、アイヌ人の神への祈りが聞こえた。宮沢賢治の森では、鹿等の動物がしゃべっている声が聞こえた。森に入ると、その静寂と同時に、森の多くの精霊たちの喧騒に取り囲まれる。私は、訪れた多くの森でこのような経験をした。
 だから、私は、前述のような客観的で学術的な森への対応に、飽き足りなかったのだ。森づくりに自らの想いを投影したかった。その想いこそ、大量生産・大量消費・大量廃棄を是認してきた工業化社会によって翻弄され続けた森に、未来に希望のもてる持続力のある精神を植えつけ、世紀を超えて未来の森をつくろうとする情念である。その情念が、本書で紹介する三つの森を20世紀の終わりに誕生させた。本書のテーマである「都市に森をつくる」ことは、21世紀に予想されるさらなる深刻な地球環境問題を解決する鍵を握っていると私は確信している。三つの森が目指すものは、「森を核とする文明」である。

反自然的文明への挑戦
 なぜ、「森を核とする文明」なのか。その答えは、産業革命によって生み出された大量生産・大量消費・大量廃棄の反自然的文明への挑戦である。
 人類は森を住処とするサル等の霊長類から進化した。サルからヒトになったのは、快適で安全な森の樹上生活を捨てて、二足歩行を獲得して危険なサバンナの大地に踏み出したからである。人類は大脳を発達させ、二足歩行によって自由に両手を使える、今までになかった動物として出現した。それは地球上における「ヒト革命」とでもいえる転換であった。
 ヒトは長い間、地球生態系の中で、大型の動物に食べられる食物連鎖系の一員である「自然従属型人類」として生き続けた。大脳皮質を発達させたヒトは、自然環境をヒトの都合のよいように改変し、自然の富を一方的に収奪する「農業革命」によって、「自然順応型人類」として生きる選択をした。そして、「産業革命」によって、地下に蓄積されてきた化石資源や金属を取り出し、その力によって、これまで自然界になかった巨大都市文明という装置をつくりだした。「自然征服型人類」の登場である。しかし今、私たち人類は、そのことによって地球規模の深刻な環境問題に直面し、人類そのものの存亡の危機を招いている。500万年の人類史上初めて「地球が有限で劣化する」という現実に直面することになった。そのことは、地球は富を一方的に収奪する対象ではなく、地球上の全生命にとって「かけがえのない地球」であるということを人類に初めて認識させることになった。それは、人類がその叡智の証しとしてきた文明そのものの具現体・装置としての「都市」が、止むことのない欲望の反映物であったことを赤裸々に浮かび上がらせたのである。

森が存在しなければ、人類は存在しない
 「かけがえのない地球」という認識の中では、森は人間の存在の上位に位置づけられる必要がある。つまり、「森が存在しなければ、人類は存在しない」ということである。言い換えれば、「人類が存在しなくても。森は存在しえる」のである。
 そして、その森は、野生の森への回帰でなければならない。森から生まれた人類が、森を捨てて自然征服型文明を築き、結果として地球規模の環境破壊をもたらした。地球と共生する「森を核とする文明」は、捨てた森にもう一度回帰することである。それは、私たちの日常生活のごく身近なところに、たえず野生の森が存在することを意味する。森を誰も近づくことができない山岳や価値のない場所に隔離して置いておくのではなく、日常の風景の一角に必ず取り込まれる位置に置くことである。
 日本人は、野生の自然や大自然を生活の場に置く代わりに、箱庭のように縮小し、自然への憧れを精神的なものに転換して観賞してきた。そこには、研ぎ澄まされた自然への慈しみや自然へ同化する心が横溢していた。それが日本文化の根幹を形成してきた。しかし、そこには二つのことが欠けていた。一つは、野生の自然をできるだけそのままの姿で観賞し体験するという態度である。例えば、森の中を意味もなく散策することは、日本ではあまりポピュラーでなかった。もう一つは、公共性である。日本庭園は、極限の私的空間の中で、静かに想念として自然を観賞することを旨としている。このように、日本では、古来より私的なチャンネルを通して自然と接し、愛でる文化を育んできた。
 地球規模で森が破壊され、地球環境問題が深刻になってきた今こそ、これまでのような限定された自然との関わりから解きほぐし、森が破壊される痛みを感じ、地球生命の鼓動と共有できる「公」としての森を身近な存在とする社会の構築が求められる。「森を核とする文明」は、このような森との関係を、「地球生命にとってかけがえのない共通の存在」として、社会の仕組みの中で実際に築いてゆくことを目指している。

「森を核とする文明」を目指す三つの森
 今までの大量生産・大量消費・大量廃棄を先導してきた20世紀の自然征服型の文明に立ち向かう「森を核とする文明」。この新しい文明を目指すために、私は、今まで従事してきた森づくりの中から、三つの森を選び出した。これが本書に紹介する森である。三つの森は、「森を核とする文明」に向けてそれぞれの使命を担って21世紀の森として息づき始めている。
 「第一の森」は、21世紀まで持ち越された負の遺産である失われた自然の回復の使命を担っている。それは20世紀に失われた膨大な自然を、都市化によるブラウンフィールドに取り戻すことにある。それを、万博記念公園に再建された「野生の人工の森」から報告する。1970年の大阪万国博覧会によって造成され、パビリオンが建設されて撤去された跡地における、「生物の多様性と自立する森」をテーマにした「万博記念公園の森」の再建は、人類が持続的に生きる知へのパラダイム転換を促すことであろう。
 「第二の森」は、巨大化し続ける都市に森の思想を注入することで、持続可能な都市への道を切り開くことである。
 20世紀の特徴であった巨大都市の誕生は、都市の縁辺部の開発を促し、多くの森が破壊された。21世紀は、地球のサイズに合わせた都市づくりが求められる。急速に巨大化の軌跡をたどった大阪都市圏において、消滅の危機にあった生駒の森を「大阪府民の森」として保存・蘇生するプロジェクトは、森こそが都市になくてはならない存在であり、そこに居住する人々の体内に宿っている遺伝子との連続体であることを示そうとしている。
 「第三の森」として登場する「新梅田シティの森」は、大都市・大阪の中心市街地の一角を占める工場跡地の超高層建築による再開発事業において、森を核にしてコミュニティの再建を目指そうとしたものである。20世紀における自然破壊は同時に、歴史や伝統の破壊をも誘発させた。それは、共同体の深い絆を断ち切ることになった。大量生産・大量消費に依拠する経済優先の巨大都市社会は、利便性と快適性をひたすら追い求める自然征服型の文明を築きあげた。「新梅田シティの森」は「森がなければ都市も存在しない」というメッセージを都市の中心に植え込む「環境創造都市」のモデルとして建設された。
 この三つの森は、20世紀後半に生まれ、21世紀の現在も生育し続けている。これらの森は、地球環境時代に生きる新しい価値観に基づく21世紀の文明の形=「森を核とする文明」へのパラダイム転換を促す契機であって欲しい。
 一連の森の蘇生と創造を通して、地球上で最大の生物集団である「森林」を人類を含めた生態系の中心に位置づける、新しい関係を築くことが、「森を核とする文明」への第一歩であると信じる。


2004年1月
吉村元男