ユーロ アーキテクツ


目  次


1 夢見る時代は終わった

   インタビュー:ドミニク・ペローウイリアム・オルソップ

2 職人技とコンピュータ

   インタビュー:アルバロ・シザサンティアゴ・カラトラバ

3 エコロジー問題とどう付き合うか

   インタビュー:ノーマン・フォスター

4 上流階級しか建築家になれない?

   インタビュー:ジャン・ヌーベルレム・コールハース

5 地域主義と優等生たち

   インタビュー:アンリ・シリアーニアルベルト・カンポ・バエサラファエル・モネオ

6 ポストモダン批判という仮面

   インタビュー:ザハ・ハディド

7 軽さ志向の裏に歴史都市の重み

   インタビュー:アンリ・ゴーダン

8 “ヨーロッパらしい”大規模開発

   インタビュー:ハンス・コールホフジャック・ヘルツォーグ

9 何をつくるかより何を壊すか


■インタビューした建築家のプロフィール

  • ドミニク・ペロー
  • 53年、フランス、クレルモン・フェランに生まれる。
    78年、建築大学パリ第6分校で学び、建築家の資格を得る。
    79〜80年、都市計画と社会科学を学ぶ。
    81年、一時期、他の建築家らの事務所で実務を経験した後、パリで独立。
    83年、公共住宅をはじめ若手の登竜門といわれるコンペで強さを見せ、頭角を現す。以後、コンペを精力的にこなし、コンペで得た国内の公共施設を中心に展開していく。
    84年、電子工業高等学校の設計に着手(87年竣工)、事実上のデビュー作となる。
    86年、ベルリエ工業館コンペで1等となる。90年竣工後、ここを事務所としている。
    89年、フランス大図書館のコンペで、内外の著名建築家を押し退けて、1等となる。故ミッテラン大統領の最期を飾るモニュメントとなった。(95年竣工)。
    92年、再開発にわくベルリンで、プール・自転車競技場の設計者となる(98年竣工予定)。国外における初の大型プロジェクト。これをはじめ、大図書館など、ランダムな開口が印象的な作品が目立つ。
    93年、フランス建築グランプリ受賞。
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  • ウィリアム・オルソップ
  • 47年、イギリス、ノーザンプトンに生まれる。
    73年、AAスクールを卒業する。在学中、パリのポンピドゥーセンターのコンペ(70年)で2等となる。
    73〜81年、美術家として評価されているオルソップは、セント・マーチン美術学校で彫刻を教える。その間、セドリック・プライス(73〜77年)、ロデリック・ハム(78〜79年)のところで設計に従事する。80年、独立して設計活動に入る。
    82年、ウエストミンスター埠頭のコンペで1等となったのを皮切りに、複数のコンペで話題となる。
    88年、ハンブルグ(ドイツ)のフェリーターミナル。
    90年、ドイツ、ベルリン生まれ(42年)のヤン・ステーマーとパートナーシップを結び、ロンドンと並んでハンブルグが彼らの拠点となる。さらに、モスクワとイーストアングリアにも事務所を持ち、広域ヨーロッパを対象とした活動へと広がっていく。
    90年、マルセイユの県庁舎のコンペで1等となり、初の大型実施作品となる(94年竣工)。同年の作品、カーディフ(イギリス)の旅行者センターで、RIBAの賞などを受ける。
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  • アルバロ・シザ
  • 33年、ポルトガル、オポルト近郊に生まれる。
    49〜55年、オポルトの大学で建築を学ぶ傍ら、師フェルナンド・タヴォラの事務所で実務に携わる。
    55年、建築家となる。オポルト近郊、海辺のカフェレストラン(63年竣工)、同じくオポルト近郊レサのスイミングプール(66年竣工)など、初期の作品ながら完成度が高いもので注目される。
    66年、この年以降、オポルトの大学で、継続的に建築教育に携わっていく。
    74年、ポルトガルは民主革命により、サラザール独裁政権に変わって新左翼政権が台頭する。共産主義的発想による公共住宅建設が政策の大きな柱となる。こうした流れのなかで、この時期のシザにはローコストの集合住宅作品が目立つ。サン・ヴィクトール集合住宅、エヴォラの集合住宅(77年竣工)など。
    80年、ベルリンのクロイツベルグ集合住宅。これまで、オポルト周辺の比較的狭い範囲で作品をつくってきたシザが、国際的な舞台で建築家として活躍するようになっていく。
    92年、プリツカー賞の受賞で、一地方の優れた建築家以上の存在であることを世界的に印象づける。
    93年、オポルトに近いスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラにガリシア現代美術センターを完成させ、地元に名作をまたひとつ加えることになった。また、焼失したリスボンの古い市街地チアド地区の再開発を手掛ける。
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  • サンティアゴ・カラトラバ
  • 51年、スペインのバレンシアに生まれる。
    73年、バレンシア建築学校を卒業し、建築家となる。
    79年、チューリッヒ工科大学で土木工学を学ぶ。
    81年、チューリッヒに事務所を設立。スイス国内を初め、精力的にコンペに参加し、入賞を重ねる。
    83年、チューリッヒのスターデルホーフェン駅増築のコンペで1等。90年に竣工し、洗練されたディテールと独特の空間が高く評価される。
    87年、スペインのバルセロナにバック・デ・ローダ橋。橋の常識を破るデザインに賛否両論。
    91年、ニューヨークのセント・ジョン大聖堂の増改築コンペで、内部をバイオシェルターとする案を出し1等。
    92年、カナダのトロントにBCEプレースギャラリー。
    92年、バルセロナのオリンピックメイン会場にモンジュイック通信塔。
    94年、フランスのリヨンにTGV空港駅。大規模建造物の力作。
    95年、出身地バレンシアに二本目の橋を架け、その直下の駅も完成させる。バレンシアでは現在、通信塔と博物館からなる科学芸術都市の構想も手掛けている。マンハッタンを望むルーズベルト島にサウスポイントパビリオンを設計。カラトラバは可動システムで形を変えていく建造物を複数設計しているが、これもそのひとつ。
    96年、スペインのサンタクルス・デ・テネリフェに12000平方メートルの大展示場を有する見本市会場。
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  • サー・ノーマン・フォスター
  • 35年、イギリス、マンチェスターに生まれる。
    高校卒業後、イギリス空軍で2年間の兵役。
    56年、マンチェスター大学に入り、実務重視の建築教育を受ける。
    61年、奨学金を受けてアメリカのイエール工科大学の修士課程へ進む。ここでロジャースとも出会う。
    63年、イギリスに戻って、ロジャースらとチーム4を組むが、4年で解散。
    67年、妻のウエンディとともに、フォスター・アソシエイツを設立。
    74年、イギリスのイプスウィッチのウィリス・フェイバー・アンド・ダマス社のオフィスビルで注目される。90年には保存建造物に指定される。
    79年、指名コンペの結果、香港上海銀行本社ビルの設計者に決まり、86年に完成させる。このころから、ヨーロッパをはじめ世界各地で大規模な公共施設の設計を手がけるようになる。フォスターらしいハイテク建築として代表的なものに、スタンステッド空港(81/91年)、ルノー配送センター(82/83年)。
    また、フランス、ニームのキャレダール(84/93年)では難題だった歴史的市街地との調和が高く評価される。
    91年、ロンドンのロイヤル・アカデミーの増築サックラーギャラリーを成功させるなど、ハイテク建築を目のかたきとするイギリス伝統文化の擁護者たちからも徐々に認められる方向に。後になって、建築家としての功績によりサーの称号を与えられる。同年、東京にセンチュリータワー。
    現在、ドイツに多くのプロジェクトを抱えているが、その代表がフランクフルトのコメルツバンク本社(91年設計)。超高層ビルをグリーンゾーンが螺旋状に上がっていくというもの。また、西暦2000年を記念する事業として、大英博物館改修計画が進行中。
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  • ジャン・ヌーベル
  • 45年、フランス、フュメルに生まれる。
    72年、エコール・デ・ボザールで建築を学び卒業する。大学紛争前後の混乱期に在学し、受けた教育よりも実務を通して建築を知る。独立後、精力的にコンペをこなし、常に現実の建築界に対して戦いを挑む姿勢を示す。
    76年、公共建築決定のプロセスなど制度上の問題などに抗議して、“Mars76”運動を展開。
    78年、レ・アール地区再開発に対して、抗議コンペを実施する。
    87年、アラブ世界研究所を完成させる。それまで連戦連敗だったコンペだが、ついにこれで1等を得て実現する。この作品でヌーベルは一躍、フランス現代建築の星となる。また、ニームにローコスト集合住宅『ネモジュス』を完成させる。同年、フランス建築グランプリ受賞。
    89年、デファンス再開発地区の『無限の塔』案で、コンペ最優秀賞。高さ430メートルのスレンダーな超高層ビル。実施を前提としていたものの、実現の見通しはたっていない。
    90年代に入って、ヨーロッパの大規模事業には、必ず名を連ねる著名建築家のひとりとなっていく。
    91年、ベルリンにデパートとオフィスを含む複合施設『ギャルリー・ラファイエット』の設計をコンペで得る(95年竣工)。
    93年、リヨンのオペラハウス。
    94年、パリのカルティエ財団、フランス、トゥールの国際会議センターなど、国内でも重要な作品を完成させる。
    94年、世界中の建築家が参加したユーラリール再開発では、3本のオフィスビルが並ぶユーラリールセンターを担当する。
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  • レム・コールハース
  • 44年、オランダ、ロッテルダムに生まれる。
    52〜56年、こども時代をインドネシアで過ごす。一時期、ジャーナリストや映画関係の仕事にも携わる。
    65〜72年、ロンドンのAAスクールで建築を学ぶ。
    72年、渡米。コーネル大学で73年まで学ぶ。
    75年、ヨーロッパに戻って、ロンドンでOMAを設立。以後、アメリカとヨーロッパの大学で建築を教える。
    78年、『デリリャス・ニューヨーク』を著し、建築界に世界的な波紋をよぶ。
    87年、オランダのハーグにダンス・シアターを完成させる。ロシア構成主義の影響が指摘されつつも、建築界に新風を吹き込む作品となり、建築家として遅いデビューを飾る。
    89年、ドイツ、カールスルーエのメディアテークのコンペで1等となるが、土壇場で実施が見送られる。
    92年、オランダのロッテルダムに、クンストハール。
    93年、福岡にネクサス集合住宅。
    94年、フランス、リールのユーラリール全体計画を任される。ユーラリールは、大陸の高速鉄道網がイギリスと繋がることで新たに生まれた国境駅、また、その一部であるコングレスポを設計する。
    94年、第二の著作『S・M・L・XL』で、現代都市への鋭い視線を交えてOMAの軌跡を綴る。
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  • アンリ・シリアーニ
  • 36年、ペルー、リマに生まれる。
    55〜60年、ペルー国立工業大学で建築を学ぶ。ちょうどラテンアメリカではモダニズム建築教育の充実していた時期だった。「すぐれた教育を受けた者しか優秀な教育者にはなれない」とシリアーニはいう。
    61〜64年、大学を卒業した後、政府機関の建築家として、公共住宅をはじめ公共事業に携わる。同時に、個人でも、個人住宅をいくつか手掛けるなど、若いころから実務の機会に恵まれる。
    62〜94年、ペルーの大学で建築を教える。そのころ、国内のコンペでも成果をあげる。
    64年、給費留学生としてフランスへ渡る。
    68年、大学紛争で、旧ボザール体制が一掃される。
    69年〜、新しい建築教育が求められるなか、シリアーニは、32歳の若さで、建築大学パリ第7分校で教え始め、独自の建築教育のあり方を模索していく。
    68〜75年、ミシェル・コラジュと共同事務所、これに、70年以降はユイドブロも加わる。
    76年、フランス国籍を取得。ペルー時代からフランスに拠点を移してからも、さまざまな建築家と共同で設計活動をおこなってきたシリアーニだったが、この年以降、一人で事務所を持つようになる。
    77年、建築大学パリ第8分校に移り、引き続きシリアーニの建築教育は継承されていく。その教育の成果は、80年後半ごろから、フランス若手建築家を中心としたネオ・コルビュジエ派というかたちとして現れてくる。教育者としてすでに名声を得たシリアーニは、ペローヌの戦争博物館(92年竣工)、アルルの考古学博物館(93年竣工)などの公共施設では、人に幸せをもたらすモダニズム空間を自ら設計し、建築家としても充実した時期を迎える。
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  • アルベルト・カンポ・バエサ
  • 46年、スペイン内陸部、バリャドリッドに生まれ、幼年時代をアンダルシア地方南端のカディスで過ごす。
    71年、マドリッドの建築学校を卒業し、建築家となる。以後70年代に、住宅をいくつか手掛ける一方、スペイン建築界の重鎮フリオ・カノに協力し、スペイン内陸の各都市に教育施設を設計し、アルメリアの労働大学も手掛ける。
    76年より、マドリッドの建築学校で設計を教える。
    77年より、海外建築を扱う日本の建築専門誌「A+U」のコレスポンデントとなり、日本では身近なヨーロッパの建築家となる。また、地元スペインの専門誌はもとより、イタリアの専門誌「ドムス」をはじめ、世界各国の建築専門誌上で積極的に論文を発表している。
    80年、スペイン北部ガリシア地方の市役所のコンペで1等となり、実施に至る。以後、国内の公共施設コンペで安定した強さをみせ、ハビエル・エステバンらと協同で、本拠地マドリッドを中心に、保育園や公立学校の設計を数多く手掛ける。この時期の代表作にサンフェルミン地区の公立学校。彼の建築傾向は、ヨーロッパの中では遅れて訪れたスペイン・モダニズムに属する。一方で、アフリカに近いアンダルシア地方のバナキュラーな建築からの影響も色濃い。80年以降、ヨーロッパやアメリカで客員教授を勤めるなど、建築教育の活動範囲も広がっていく。
    92年、スペイン国内で注目されたグラナダ信用金庫本社の実施コンペで1等となり、竣工すれば彼にとって最大規模の建物になるはずだが、実施の見通しは立っていない。
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  • ラファエル・モネオ
  • 37年、スペインのナバラ州トゥデラに生れる。
    61年、マドリードの大学で建築を学びながら、サエンス・デ・オイサの下で実務に従事し、建築家となる。
    61〜62年、デンマークのヨーン・ウッツォンのアトリエで働く。
    63年からローマで研究活動。
    65年、スペインに戻り、マドリードの大学で建築を教える(66〜70年)。
    71〜85年、バルセロナの大学で建築教育に携わる。独裁制から民主制へとスペインが政治的に移行する時期で、モネオは30代の若さながら、建築教育の新たな方向を軌道に載せる大役を果たす。
    81年、スペイン内陸部、ログローニョ市庁舎を完成させる。
    85〜90年、ハーバード大学大学院、建築学部デザインコースの長を務め、名実ともに世界的な建築教育者となる。
    85年、すでに教育者として有名だったモネオは、スペイン、メリダの古代ローマ博物館で、建築家としても国際的に注目されるようになる。
    92年、バルセロナオリンピックとセビリア万博の年。この年と前後して、スペイン国内で多数の建築を手掛ける。セビリアの空港(91年竣工)、首都マドリードのアトーチャ駅(92年竣工)、マジョルカ島のミロ財団美術館(93年竣工)、バルセロナにホテルやショッピングモールを含む複合施設イリャ(93年竣工)など。また、指名コンペでも強さを見せる。
    96年、プリツカー賞とUIA金賞同時受賞の栄誉を受ける。
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  • ザハ・ハディド
  • 50年、イラク、バグダッド生まれ。
    72〜77年、ロンドンAAスクール。レオン・クリエ、レム・コールハース、エリア・ゼンゲリスらの下で建築を学ぶ。
    77〜79年、コールハースらのOMAに所属。
    79年、独立してロンドンに事務所を構え、設計活動に入る。80年代には、継続的にAAスクールで教える。
    83年、香港の“ザ・ピーク”国際コンペで1等。建築の断片が飛散したかのような独特のドローイングで、華麗にデビューした。
    88年、MOMAでおこなわれたデコンストラクティヴィスト建築展で、リベスキンド、コールハース、アイゼンマンらとともにとりあげられる。80年代末から世界的な建築家として定着するにつれて、海外で教える機会も増えていく。
    90年、日本で、レストラン・ムーンスーンを手掛け、インテリアながら初の実施作品となる。東京でビルのプロジェクト複数。
    93年、ヴィトラ社の消防ステーション。実施された建築処女作。ヨーロッパでも建築家として評価される第一歩となる
    94年、ベルリンIBAの集合住宅。8階建ての高層部分が斧のように鋭い。イギリス、カーディフのオペラハウスコンペで、世界の著名建築家を押し退け1等となる。
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  • アンリ・ゴーダン
  • 33年、フランス、パリに生まれる。
    52〜54年、大学で海運業を学ぶ。
    56〜66年、パリのボザールで建築を学び、33歳で建築家となる。旧ボザール体制下で教育を受けた最後の世代に相当する。
    67〜69年、アメリカのデラノ−アルドリッヒ財団から賞を受け、ニューヨークに遊学。その間、68年からはハリソン−アブラモビッツ事務所で設計に携わる。
    69年、パリに戻り、73年まで Apur で都市計画に従事すると同時に、ベルサイユにある第3分校で建築を教える。
    70年より、パリで独自の設計活動に入る。初期の代表作に、フランス、モーレパスの集合住宅がある。
    72〜76年、“人類学と都市計画”についての研究と教育に携わり、以後、民俗学的な見地から、建築や都市についての考察を深めていく。
    82年、コルビュジエ財団の委員となる。
    83年ごろから、59年生まれの息子ブルーノが加わり、アンリ・ゴーダン独自の設計手法は、息子へと伝えられていく。アンリとブルーノの親子体制になってから、ゴーダンは複数の話題作を出している。パリ、メニルモンタン通りの集合住宅(88年竣工)、パリ古文書館(90年竣工)、サン・ル大学(93年竣工)、シャルルティ・スタジアム(94年竣工)をはじめ、ロダン美術館など、既存部分と融合した増築作品は高く評価されている。
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  • ハンス・コールホフ
  • 46年、旧東ドイツ、ローベンシュタイン生まれ。
    75年、カールスルーエ工科大学で建築を学び、卒業する。さらに、アメリカ、ニューヨークのコーネル大学で学んだ後、78年まで同大学で教える。
    78年、帰国してベルリンに事務所を設立。
    83年、旧西ドイツ出身のヘルガ・ティンマーマンとパートナーシップ。
    83年、ベルリンに集合住宅を設計する(87年竣工)。フランクフルト民俗学博物館(87年コンペ案)、ナント、アトランポール計画案(88年)など、都市計画的な側面が強く反映された案で注目される。
    89年、ベルリンの壁崩壊。旧東と西の建築家パートナーシップでベルリンに事務所を構えるコールホフらは、ベルリンという新しい都市の行方に大きく関わることになる。
    90年から、チューリッヒ工科大学で建築を教える。同大学は、ヴィットリオ・ランプニャーニをはじめ、統一ベルリンの再開発に対して保守的な理論の研究の場となっている。コールホフも基本的には伝統重視の保守派だが、若い世代の代表として現実に即応した路線を追求していく。
    93年、統一ベルリンの中心となるべきアレキサンダー広場のコンペで1等となる。
    94年、KNSM島の集合住宅(オランダ)。水辺に建つ350戸の巨大な集合住宅を完成させる。
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  • ジャック・ヘルツォーグ
  • 50年、スイス、バーゼルに生まれる。
    75年、チューリッヒ工科大学を卒業する。ここでアルド・ロッシからも建築を学んでいる。
    77年、同大学でドルフ・シュネブリの助手を務める。シュネブリは、70年代から80年代にかけてチューリッヒ工科大学の建築教育をリードした人物で、アルド・ロッシの理念を間接的に受け継ぐティチーノ派に属する。
    78年、故郷バーゼルに戻り、ピエール・ド・ムーロンと共同で事務所を設立する。ド・ムーロンもバーゼル生まれで、その後もヘルツォーグとまったく同じ経歴。初期に地元スイスにつくったいくつかの小住宅で注目される。
    91年、ヘルツォーグ&ド・ムーロンに、新たなパートナーとしてハリー・グーガーが加わる。90年代に入って、彼らの事務所は飛躍的に拡大する。
    93年、バーゼルに鋳鉄製の鎧戸がファサードを覆うシェッツェンマート通りの集合住宅を完成させる。同じくバーゼルのSUVAビルでは改修でガラスのファサードが既存建物を覆う。
    94年、クリスティーヌ・ビンズヴァンガーがさらにパートナーとして加わる。
    95年、バーゼルのシグナルボックスでは、銅板の帯が建物をくるむ。
    95年、イギリス、ロンドンのテートギャラリー新館の実施コンペで1等。ロンドンの西暦2000年記念事業の一角を担う。
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  • 著者の紹介


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