タウンリゾートとしての商店街

プロローグ

都市から商店街を考える

商店街の不振

 ここ数年、商店街が新聞や雑誌に紹介されることが多くなっている。これは何も商店街が魅力あるものとして注目されたのではなく、御存知の「大店法」の改正やこれに伴なう特定商業集積法、改正中小小売商業振興法などの助成・支援施策といったいわば商店街の救済的側面からの話題である。

 事実、平成三年一月に実施された「商店街実態調査(中小企業庁)によれば、停滞感・衰退感をもつものが九一・五%、来街者の減少が六五%、店舗の減少が四八・四%と統計的にみても商店街が不振にあえいでいることがわかる。また、大店法の改正に関連して、各方面から商店街の意義づけが議論されたが、その大勢的意見をまとめると、@商店街は地域住民の生活に欠くべからざる存在であった、Aそれは地域の核であり、都市の顔でもある、Bこの商店街が衰退し、歯抜け状態が進行すれば、いずれ商店街は崩壊する、Cひいては地域の衰退にもつながり、都市崩壊の危機でもある、Dしたがって商店街を国が支援・助成し何とか以前の活気をとりもどしてもらおう。

 もちろん、すべての議論がこのような単純な論理であったわけではないが、おおむねこれに近いストーリーである。

 私はこの論理に対して二つの視点から疑問をもっている。

商店街の崩壊が地域を衰退させるのか

 一つは商店街の衰退が地域住民にとって本当に困ることなのか。つまり消費者の求める商業施設として、商店街が自助努力してこなかった結果が、現在の衰退にあるのであって、消費者からみて国の税金を使ってまで商店街に生きのびてもらう必要がどこにあるのかということである。

 もう一つは商店街の衰退がやがて都市の衰退につながるという点である。

 この場合、都心部や大ターミナルの前にある広域型商店街と、一般住宅地にある近隣型商店街に分けて考える必要があるが、前者は明らかに地区間競争の中で、より広域的な吸引力のある地区が発展するのであるから、地元商店街は積極的に大型店や広域型専門店を誘致し、あるいは自ら広域型店舗に脱皮するなどして地区間競争に勝つことを考えるのが自然である。逆にこれまでそうした努力をおこたってきたところが衰退しているのであって、そこが広域型商店街から地域型あるいは近隣型に移行してきたとしても、それは商店街と地域住民の選択の問題であり、決して都市の衰退とは考えられないであろう。

 一方、一般住宅地にある近隣型商店街−−実は商店街のほとんどはこのタイプであり、商店街問題の本質はここにある−−はどうか。

 近隣型であるから当然近所の住民に支えられてきたのであるが、住民のライフスタイルやニーズが変化し、コンビニエンスストアや、車でロードサイドショップや大型店へ流れてしまう。これは住民の選択であると同時に、一定のマーケットを大資本や全国チェーンのシステムをもった巨人がそのシェアを吸い取るようなものであり、明らかに商店街は負けてしまう。極言すれば、これも地域住民の選択であるが、この問題は後で詳しく論じるとして、それ以前に商店街の本質に立ち帰って考える必要があるということである。

 結論から言うと、近隣型商店街の場合、商店街の店舗が減少し、いわゆる歯抜け状態が続いたとしても、地域の衰退には結びつかない。商店街はそもそも住宅地に一定の人口が定着し、その需要を見込んで自然発生的に形成されたものが多く、商業施設としてではなく商店付き住宅として存在したもので、本来借家住宅なのである。商店街の店主が郊外に一戸建を構え、店員をやとって車で通勤してくるような経営は、こうした商店街にふさわしくないのである。

 したがって、商店街は商売で身を立てようとする商人が一定期間商店街の店舗を借り受け、職住一体のライフスタイルによって商売人として生活をすごす場所なのであり、引退する時は引きはらうか家を購入し、仕舞屋(しもたや)として改造し、余生を送る町家となれば良い。

 後継者というのは、身内から出すのではなく、もっと元気な異邦人であるべきなのである。この点は、農業や水産業の問題と厳密に区別して考えないといけない。

商店街は本当に必要か

 商店街のあるべき論をやや古くさい話で展開したが、実は商店街が本当に必要なのかと問いかけた時、それは単なる必要論ではわり切れない何かが残るからである。事実郊外ニュータウンに育った若い人は近所の商店街といってもピンとこない。せいぜい都心部にある繁華街型のものをイメージできるだけである。逆に近所に昔ながらの商店街がある街で育った人は、商店街が生活の中心を占めていた思い出をもち、一種のノスタルジーを感じる。

 また、旧共産圏の国々では、公設の市場や百貨店はあっても個店が連なる商店街がなく、アメリカやカナダなども一部の都市を除いてあまり見かけない。つまり、商店街を流通のシステムとして把えたり消費者ニーズの変化の中で論議している限り、現在の日本にあるほとんどの商店街はその役割を終えたと結論づけられるのである。

 もちろん、商店街の自主的努力によって活性化を図り、他の流通産業と互角に競争を生き抜くところもあるだろう。しかし、それはやはり条件の整った一部の商店街であり、強力なリーダーが出現して商店街をあたかも一つの企業体のように牽引していく恵まれた商店街である。

 私は、商店街不要論者ではないが、地域住民のための商店街が、商売だけの商店群として立地しているだけであれば、それは街にとって必ずしも必要な存在ではないと考えている。商店街に住み、地域住民と一体となったコミュニティの一員として商売をするなら、これは正に地域生活にとってかけがえのない存在になるであろうし、また地域の伝統や文化資源としての意味をもつ現代の町家として維持し、再生していくべきであり、都市空間においても確固とした位置づけを与えるべきであると確信している。

商店街整備の限界

 このような立場から見ると、これまでの商店街づくりは極めて不十分なものである。

 政府の各種施策は基本的に中小企業振興の立場から地域の商店街組合に対して実施されている。商店街整備に係わる主な施策は大きく分けるとハード事業とソフト事業に区分されているが、ハードの中身はアーケード、カラー舗装、街灯など、ソフトではイベント、スタンプ事業等である。

 中小企業事業団が発行した『商店街の街づくり百科』(一九九二年)をみると全国の商店街が政府の助成により実施した環境整備の事例が写真入りで紹介されている。一部の広域型商店街を除くと、どの頁をめくっても同じようなアーケードとカラー舗装のオンパレードであり、とても優れたデザインとは言えないものが多い。全国であるにもかかわらず地域をよく見なければ写真だけで、どの地方の商店街であるかを特定することはまず不可能である。つまり、組合員がまとまってこのような努力を払ってきたいわば前向きの商店街ですら、消費者の眼からみると地域特性もなく、やぼったくセンスの悪い商業空間にしか映らない。これでは最新でかつ質の良い空間のデザインと強力なマーチャンダイジング力をもつ大型店や全国チェーンの専門店との競争で負けるのは当然であろう。

 デザイナーの立場からみると、大手企業から依頼された店舗のデザインは、一定の予算もあり意志決定や事業のスケジュールが比較的スムースに流れることから、ビジネスとして取り組みやすく、また、優れたデザイン力を評価して依頼されるケースが多い。逆に商店街の場合は、補助金がらみの手続きや多数の役員による意志決定に時間がかかり、しかもデザイン力よりも低予算で皆の意見をうまく取り入れてなど、売れっ子デザイナーが取り組むような案件となりにくい。施工業者の下請け的存在のデザイナーか、特に商店街の役員と結びつきのあるデザイナーが施主の意向に左右されながら作業しているのが通常であろう。これでは良いものができるはずがない。

 もちろん建築雑誌や商店建築誌に登場する比較的立派な商店街も存在する。これらのケースは、全国の商店街からみればほんの一にぎりでしかなく、商店街に思い入れのある有名なデザイナーが、水準以上の予算を与えられデザインを評価される立場で取り組んだものに限られる。しかし、それにしても最新のショッピングセンターに較べれば各個店のファサードが不調和でありショッピングセンターのデザインスタイルを商店街に持ち込んできたという印象をぬぐえない。しかもそれらは例外なく都市の中心地にある広域型であり、九割を占める近所の商店街とは無縁のものである。

 時折、こうしたデザインに近いものがやや小さな商店街にも見られることがあるが、私の眼からみると、それはどことなく不釣合いで場違いな印象を持ってしまう。バラバラの商店街に、次元の違う立派なアーケードと高級な舗装ばかりが目立つのである。換言すれば、このようなアーケードとカラー舗装の商店街は、仮にこれに合せて個店のいくつかが改築し美しくなったとしても、その集客数の増加は一時的なものであり、全体としての構造的な集客力にはなり得ないということである。

 さらに、近年登場してきた「街づくり会社」や「ハイ・アメニティ・マート」の発想は、こうした限界に対する解決策として駐車場やコミュニティ施設を導入するなど十分に評価される。しかし、現在の商店街の形成原理や商店街空間の新しい意味づけがない限り、こうした動きもやはり商店街活性化のカンフル剤に過ぎないことも事実である。

商店街を考える三つの視点

 私は、従来の、そしてこれからも続くと予想される商店街活性化の流れに対して、大きな疑問を提示しようとしている。

 それは、行政施策として打出しにくいものかも知れないが、少なくとも都市政策の立案者や商業関係者、商業空間のプロデューサー、建築家、デザイナーなど、街づくりを考える人々に一つのヒントにはなるだろう。

商店街そのものについて

 商店街整備のほとんどはアーケードやカラー舗装で終始しているが、こうしたハード整備が本当に優れたデザインを実現し成功するのは、ほとんど広域型商店街であろう。九割以上を占める近隣型商店街はこれからもデザイン水準の低い一時しのぎの改造を繰り返すことが予想される。

 私はこうした大多数の商店街が二十一世紀の都市においてどのような役割を発揮し、都市構造の中でどのように位置づけられるべきであるかを考えたいのである。

都市の魅力という側面

 世界の都市を歩くと魅力のある街と魅力のない街に出会う。魅力のある街は多少危険で雑然としていても魅力がある。有名な観光資源や最先端の商業・レジャー施設も魅力であるが、何度も訪れたいと思う街はどこか違うのである。万一、有名な観光資源以外何もない街であれば、それは多少美しい街であってもすぐに飽きてしまう。

 逆に表通りや観光客で賑わう中心地から、一歩裏通りに入ったり、少しはずれた場所に足を向けた時、そこに普通の人々が生活している風景が魅力あるものであったとしたら、それは本当に感激であり、その街の魅力は決して忘れることができない。

 日本に置き換えてみると、往時の町家が並ぶ風景は、その一つであり、また商店街も有力候補であったに違いない。

 今、その魅力が失われつつある。中途半端な商店街改造やハリボテの店構え、小ぎれいに並べられた商品、生活感のない店員等々、私達は往時の商店街文化を忘れてしまったようだ。私は普通の商店街を都市の魅力という点から再評価し、そのあり方を示したい。

都市開発における新しい商店街の創造

 近年の都市開発が反省期にある現在、その方向は比較的はっきりしている。ただ、具体的な手法や空間論が見えていないだけである。

 つまり、ニュータウンの地区センターに代表される無機質な商業空間に対して、盛り場性や界隈性といったヒューマンスケールの魅力が求められている。

 これは中途半端にやったところはすべて失敗しているが、私が提案する「職住融合化地区」や「現代町家街区」を地区中心の縁辺部において展開すれば新たな可能性がひらかれよう。

 また、ウォーターフロント開発や遊休地開発においても、これまで海外事例のモノマネ一辺倒であったが、これからの開発においては、日本の伝統的な商店街のコンセプトを活かした空間創造を目指すべきであり、その方向を考える一つの素材としてこの本を活かして頂きたいと願うものである。


このページへのご意見は学芸出版社

学芸出版社『タウンリゾートとしての商店街』/ gakugei.kyoto-inet.or.jp

タウンリゾート・ホームページへ
学芸出版社ホームページへ
京都インターネットのホームページへ