平成景気とも呼ばれるバブル経済は、 内需拡大策に伴う金融緩和によってもたらされた。 大都市での不動産投資が投機的に行われる一方、 各企業も管理業務の拡大と執務環境の改善を図り、 オフィスは供給不足となった。 土地の買漁りは地価を異常なまでに高騰させ、 たとえば東京の山手線の内側の地価総額がアメリカ全土のそれに匹敵するといわれるほどであった。 ビルブーム、 都市開発ブームの中で工事費はウナギ上りとなり、 人手不足が工事の足を引っぱった。 元来、 都市計画はこのような場面でそれなりの役割をもつべきものといえるが、 無力であったとしかいいようがない。 しかし、 本意・不本意の如何を問わず、 わが国に実に多様な都市空間や建築を出現させた。 事業者は、 財政や資金の「ゆとり」から景観やデザインにたいし寛容であった。 バブル経済が何がしかの社会的貢献をしたとすれば、 善し悪しをひっくるめて都市空間のストックを後世に残したという点にあろう。 ロンドン、 パリ、 ニューヨーク等の今日あるのも、 その隆盛期に、 投機的都市開発が行われ、 ストックされた部分に負うところが少なくない。
このような全般的状況の中で全国の市町村でも都市景観に関する条例を制定し、 あるいは景観形成に関するマスタープランを持つなどの推進が図られた。 景観に関連する条例は今日では全国の1割をこえる市町村がもっており、 景観施策を重視している市町村はほぼ3割をこえていると推定される。 それにまたこのような景観への配慮は、 いくつかの都市における市民アンケート等をみても例外なく他の施策を圧して高い支持を得ている。 地域づくり、 都市づくりにおける景観への配慮は、 まだ十分とはいえないものの着実に浸透しつつある。
このようななかで、 都市デザイン行政を標榜する都市も多くなった。 これは、 景観行政を進めるなかでの必然的な展開とみることもできるが、 バブル経済の流れの中で都市開発や都市整備といった事業面への関与の機会が増え、 また必要性もあったからとみる方がより妥当だろう。 ここから生まれた都市デザイン事業には高い評価が与えられる反面、 デザイン物の過剰やデザイン水準の面から危惧も生まれている。
都市空間の形成に関わる各デザイン分野においても、 都市環境デザインへの強い関心と活動が見られる。 建築デザイン界は60年代に都市に対する積極的な提案を行ったが、 70年代には都市に背を向けひたすら内向した。 その後、 80年代後半になって再び都市について語るようになった。 ベルリンにおけるIBA、 パリのグラン・プロジェなど都市と接点をもつプロジェクトが引金となっていると推測されるが、 熊本アートポリスや、 福岡シーサイドももちや香椎浜ネクサスワールドなど、 海外の建築家も含めて、 建築家の競作、 建築家の意欲をそそる諸プロジェクトが建築家の目を都市に向わせたとみることができる。
バブル期の活況がクライアントを鷹揚にさせ、 建築家にデザインの自由と報酬を与え、 余裕をもたらしたのも事実である。 もっとも、 これらが全て都市空間の向上に寄与したかといえば必ずしもそうでない。
土木では、 シビックデザインとしてデザイン活動が活発化した。 これ以前にも土木学会を中心に、 公共土木施設のデザインについての取組みが行われていたが、 批判の強かった公共土木施設のデザイン向上に向け、 建設省も本格的な取組みをみせはじめた。 まだ端緒についたばかりで、 今後これまでとはちがった展開が期待されるが、 すでに橋のデザイン等で注目に値するものが確実に増えてきている。
産業デザイン分野では、 70年の大阪万博以降、 環境デザインへの関心が高まった。 しかし消費型構造のなかで、 商品デザインの多品種化、 すなわち多様なデザインへの要請から、 表面的なデザインの多様性が追及されてきたきらいがあった。 これにたいし、 89年の名古屋世界デザイン博あたりから環境デザインに本格的に取組む動きが顕著となった。 サイン、 ストリートファニチュア、 照明、 環境色彩等の各領域で、 あるいは都市デザインや建築デザインとの共同作業のなかで、 具体的な事例も数多く示された。
このほか、 パブリックアートや商業デザインなど数多くの分野から都市デザインへのアプローチがあり、 成果が得られつつある。
このような建築・都市・環境デザインの活気が注目すべき作品や場を生みだしたのは確かであるが、 同時に好き勝手なデザインやデザイン物を氾濫させ都市環境を損ねたのも事実である。 いま経済の停滞によりかつての活況は嘘のようである。 しかし、 見方をかえれば、 都市や環境に関心を持つ専門家や市民が増えているなか、 落着いた都市づくりに向かう良い機会だといえる。
60年代にわが国で都市デザインの概念が生まれてから、 都市の空間形成に関わる諸デザイン分野がこぞって関心を持つに至るのにおよそ30年の時間を必要としたわけだが、 依然として都市環境や景観が改善されたという実感は薄い。 今後、 各分野で、 あるいは横断的に都市環境デザインに関して内容を充実すると同時に、 社会的に行動をおこしていくことが必要である。
都市における対比の構図として、 ‘地’と‘図’を用いることがしばしばである。 ‘地’とは都市の大部分を占める、 ごく普通の都市整備と建築活動の積み重ねでできた市街地である。 ‘図’とは都市の骨格や拠点、 あるいは大規模な開発や建築など、 ひときわ目立つ部分で、 都市空間の認識にあたって大きな影響力を持つ。 面的な都市開発は都市計画や都市デザインで、 まさに‘図’の計画であり、 デザインであるが、 バブル期にはこれが異常に出現した。
これまでにも‘図’にあたる大規模敷地の土地利用転換に伴う都市開発がなかったわけではない。 第2次大戦直後1945年から10ないし15年は、 旧軍用地の、 あるいはまた駐留軍(米軍)の接収地返還に伴う土地利用転換があった。 民間工場、 公的住宅地、 大規模公園をはじめ公共公益施設等への転換が特徴的である。 60年代は、 既成市街地からの工場移転に伴う土地利用転換があり、 これの多くは日本住宅公団等、 住宅団地開発に多くがあてられた。 さらに70年前後に国公立の大学や研究所の郊外移転、 ことに筑波研究学園都市移転に伴う跡地利用があった。 これは、 その多くが公園や文化・スポーツ等の公益施設に転化された。 大規模民間所有地は、 民間ディベロッパーの手に渡り、 計画的な集合住宅地に生まれ変った土地も少なくない。
80年代半ばからの大規模敷地は、 それまでと様相を異にし、 商業・業務等用途での開発が特徴的といえる。 国鉄の民営化とそれに伴う清算の必要から、 国鉄跡地が大量に発生したのと同時に、 民間企業が工場を地方に積極的に移転させ、 ここにも大規模な開発用地が生まれた。 オフィス需要は、 オフィスオートメーション、 インテリジェント化等によって旺盛であった。 商業も業態の変革期にあり、 ショッピングセンター等の大規模敷地需要があった。 このような土地をディベロッパーが争って取得した。 土地所有者がディベロッパーに渡すだけでなく、 自ら開発に乗り出す例も少なくなかった。
行政も自らの所有する土地に単に公共建築を建てたり、 民間に譲渡するだけでなく、 都市開発にあてることを考えた。 いわゆる「民活」「官民パートナーシップ」による複合開発である。
多くの開発は、 容積の多くを、 オフィス床で埋め、 足回りにアトリウムやガレリアをもつ店舗等で魅力化し、 余裕のある場合にはホテルや文化施設を抱く、 複合開発を指向した。 このような開発形態はアメリカをはじめ世界の大都市での大規模敷地で典型的にみられるものである。 空間的には、 スーパーブロック(大街区)に超高層建築と公開空地を中心にした建築群の構成で、 その結果としての景観は世界のどこにいっても同様のものとなり、 歴史的都市の自覚が強い都市を除いて、 20世紀の大都市の典型的スカイラインが生まれている。 公開空地は、 広場状公開空地が基本になるが、 スケール感が人間的尺度をこえている。 そこで、 この公開空地をどのようにデザインするかが一つの課題であったが、 近年の公開空地は、 サンクンガーデン、 デッキ状広場、 さらにプライベートモールなどが工夫され、 ついには建築と一体の装置として、 ガレリアやアトリウムなどが数多く生まれた。 単純な公開空地型からガレリア、 アトリウム型への進展は都市デザイン上の大きな節目になるだろう。 都市の外部空間としてみると、 本来都市空間であるべきものが建築の内部にとり込まれ都市空間を貧しくする恐れも少なくないからである。 公開空地は、 通りや街路という都市の基幹的空間を補完し強化するはずのものであったが、 むしろ通りや街路を弱体化する作用も働いている。 公開空地はその性格上都市広場になりきれないのである。 またスーパーブロック開発が、 大都市の地域性や場所性から離れる性質を基本的に持つことは、 世界に共通の様相をもたらした大きな理由といえる。 このような大都市の風景を近代主義が巨大化した一つの傾向とみるとき、 都市デザインはどのように振舞えばよいのだろうか。
このほかにもいわゆる事業コンペはさまざまな事業条件、 形態をもちつつ数多く行われた。 それでは事業コンペによって得られる市民的空間とは一体どのようなものか。 公共施設のかたさ(定型)を崩し管理運営を柔軟にし空間を活性化することがまず考えられよう。 公的空間と私的空間の複合から生まれる空間的魅力である。 たしかにいくつかの事例でそれらしい空間は生まれたが、 まだ試行の域を出ていない。 そうこうするうちにバブル崩壊で官民のギャップは広がり事業コンペは成立しにくくなった。 ほんの一時期の特徴だったのかもしれない。
事業コンペといえば、 集合住宅地でもいくつかの事業コンペが行われ、 住宅事業者の選定が行われた。 このさいの条件として示された計画およびデザインの枠組みがデザインガイドライン是非論等につながっている。
多摩ニュータウンの「ベルコリーヌ南大沢」は、 「自然発生的な優しい景観をもつ中世イタリアの山岳都市」のイメージのもとに、 マスターアーキテクトからマスタープランとデザインコードが呈示され、 複数の建築家が相互に影響を及ぼしあいながら一つの居住空間をまとめられたとされている。 建築家相互のコ・ワーク型とみることもできる。
また福岡市内における「シーサイドももち 世界の街なみゾーン」は、 より一般市街地に近い環境の中で一つ一つの住棟が複数建築家によってデザインされた。 ここでは計画ガイドラインに簡単なデザインコードが付加されたが、 デザインガイドラインをめぐって都市デザインサイドと建築デザインサイドで若干の軋轢があった。 「ももち」との比較、 デザインガイドラインを意図的にとりやめたこと、 あるいは外国人建築家を多く登用したことなどから「香椎浜ネクサス」は話題を呼んだ。 「熊本アートポリス」プロジェクトと同じ磯崎新がプロデュースし、 建築展的な方法がとられた。 建築展は、 IBAを含めて、 ある地域や都市の文化の振興、 ひいては文化水準の向上に大きな力を持っている。 しかし、 これが直ちにまちなみ形成を主目的とする都市デザインに合致するかどうかは評価の分れるところである。
「幕張新都心住宅地」のデザインは都市デザインを実現するという点で他の事例よりもその意図は鮮明である。 ここでは、 都市計画に創造的にとり組むことを都市デザインの出発点とし、 さらに都市(計画)と建築(設計)をつなぐシステムを試行している。 建築家の個性が、 たとえば建築博覧会のように発揮されることは期待されていない。 デザインの方向性とテーマを与えるデザインガイドラインに沿って各々建築された結果が「街」になることが意図されたともいえるが、 一方で「計画設計調整者」という複数の都市デザイナーによるデザイン過程の管理をシステムとした点にその特徴があるともいえよう。 さらにこの都市デザインは、 複数事業者へ土地割当て(分散割当て)や街区への複数設計者登用の義務づけなど、 都市における様々な複数主体の存在をイメージモデルとして事業システム化している点でも注目されるが、 ここに居住者の主体的参加がシステム化されることになれば、 なお興味深い。
ところでここ10年、 商業開発が都市に与えた影響の最たるものは商業施設の郊外、 ロードサイド立地である。 ことに郊外型ショッピングセンターは、 とくに地方都市で歴史的中心部が最大の商業中心でもあるというこれまでの都市理念を崩さん勢いである。 地方都市での車社会化は、 公共輸送機関のある大都市地域よりも進行しており、 地価が安く用地も広く確保できる郊外、 ロードサイドへの商業施設立地は経済論理からは当然にもみえる。 しかし、 都市の中心部は都市基盤をはじめ多くのストックを有しており、 ことに都市のもつ歴史性や文化は小都市の中心においても他所では得られないものである。 問題は車への対応と地価ということになろうが、 それにも増して、 歴史文化を活かしたライフスタイルや都市構造が確立していないことが都市の中心にたいする市民の愛着を薄らげている。 情報や交流も含めて、 都市生活の主要場面を再構築する努力が必要である。
1993年の総選挙の結果、 自民党単独政権のいわゆる55年体制の長い歴史は終わり、 政局は流動化、 混迷を深めている。 バブル経済の時からすでに世紀末がいろいろといわれたが、 まさに世紀末的現象といえる。 その隙にオウム真理教というけったいなオカルト教団が、 世界の終末を自己演出して事件をおこした。 阪神・淡路大震災の復興もはかばかしくない。
地方分権の中で、 都市地域と農村あるいは自然地域との関係を一つながりのものとして解くことへの期待もある。 いうなれば「ルーラルアーバンデザイン rural-urban design」である。 景観は都市の景観である以上に地域の景観である。 混沌たるカオス状態が魅力的と海外の建築家に揶揄される都市景観と対照的に、 田園景観は比較的良好な状態で維持されてきたのだが、 ここにきて規制緩和の合唱の中で開発が促進される恐れもある。 地域景観はどのように変っていくのだろうか。 それ以上に、 地方圏における都市そのものが拡散的に変容していく徴候がここかしこにあることにも注目しなければならない。