書 評



『造景』(建築思潮研究所) No.34
 全国各地で交通実験が行われ快適な歩行環境を実現しようと試みられているが、なかなかうまくいかない。
 たしかにかつてに較べれば、高齢者や障害者が歩きやすいようなバリアフリーの工夫は、ごく一部だが実現している。しかし、歩行者にとって最大のバリアは自動車である。歩行障害を取り除き、車両の進入を規制することによって歩行環境は格段に向上するはずである。車道を堂々と車イスが通れるようになれば、だいぶ問題は解決するはずである。
 しかし、この試みが簡単ではない。まちに入る車両の量的規制や時間制限、公共交通機関への代替、パークアンドライド、そしてトラフィックゾーンの形成など、社会全体で取り組まなければ、根本的な解決には至らないからだ。
 本書での試みは、藤沢市(神奈川県)湘南台で行われたバリアフリーの実践報告である。
 特定の地域において住民の意見をワークショップによって採り入れながら、最善の歩行環境を実現しようとする。ハンプによって車両を規制し、舗装により歩きやすい歩道づくりが試みられている。他の都市が試みているような派手な実験性はないが、住民の意見を反映させたところに意義がある。
 なぜなら、社会実験の多くが実現に至らない理由は、車両と歩行のどちらを優先すべきか、市民的な合意ができないところに根本的な問題があるからだ。このような試みを都市の様々な地域で実現したいものである。


『建築とまちづくり』(新建築家技術者集団発行) 2001.11
 ぼくの前に道はない、ぼくの後に道はできる―。
 道の発祥からすれば、それは生物が生活する中で意図されることなく形成されるものであった。けもの道であれ人間の歩いた後の道であれ、それは生活における交通の需要・必要性から生まれたものだ。
 その後、大きな道は政治上の理由から整備される。日本では大和朝廷による国土統一が進み、中央(五畿)と地方行政区(七道)を結ぶ、人間・物資・情報の行き交う交通路が整備される。こうした都市間道路は交易や情報などのトラフィック機能が期待され、当然の需要があったわけだが、では都市内道路、中でもアクセス機能や滞留機能を担う生活道路はどうだったか。近代にいたるまではもちろん土地利用(あるいは所有権)と絡んで迷路のような道ができていたりもしたが、基本的には生活の要求により道のルートはできていた。しかし、近代都市計画の母たる区画整理は、農耕用の畦道に区切られた不整形なブロックを幾何学的に整形区画へと変更し、区画同士の間を道として描き出す。道は生活の用に与えられたのではない、大文字の政治に属すものとして整備された。「道をつくること」そのものがめざされたのであり、だれのためにどんな道をつくるのかは顧みられなかった。
 この本は利用者の視点が欠落していたこれまでの生活道路について、利用者=住民が主体的にその実態を調査学習しながら改善に取り組んだドキュメントである。参加型の手法を用いながら、行政も住民も専門家も道について学んでいる姿勢が好ましい。
 交通計画は流体力学など高次な専門的知識を要求するものであるが、しかし公的な供用物として専ら利用者がその評価を下してしかるべきものだ。道路を官僚の「作文」から救い出し、人々の「我々意識」、コミュニティの問題の一つとして論じる必要が認識され始めている。
(早)



『ガバナンス』(鰍ャょうせい発行) 2001.8
 これからのまちづくりが、住民という軸を中心に展開されていくことは議論の余地のないところ。そして、その一つひとつの現場で得られる経験こそ将来のまちづくりへの礎となるものだ。本書は、バリアフリーをめざして、3年間かけて住民参加で既存道路のリニューアルを進めた藤沢市湘南台の“みち”づくりの記録。みちづくりに関わった行政、住民、専門家それぞれの視点から、取り組み、交流そして悩みという住民参加の姿が描きだされている。



学芸出版社