図解 庭師が読みとく作庭記

あとがき

『作庭記』と庭園
 本書を手に入れた人には、必ず行ってほしい所がある。それは、奥州毛越寺庭園である。この庭園の素晴らしさは、何と言っても、そこに漂う平安の空気である。雄大にして力強く、凛とした清々しい生命力に溢れている。まさに『作庭記』が標榜する世界が現実に存在するのである。
 京都では、大覚寺大沢池庭園に同様の空気を感じることができる。法金剛院の瀧もしかりである。西芳寺や天龍寺、金閣や銀閣の庭もまた『作庭記』流の空気を醸し出している。
 自作の浄祐庵庭園や山翠庭園、伊那華庭園なども『作庭記』の跨ばむ石組や瀧石組、遣水、洲浜などに感化されて、少しでもその世界に触れようとするものである。

残された謎
 「まえがき」でも述べたように、この『作庭記』は文章だけでは、具体的かつ明瞭には理解できないように記述されているようである。肝心な語句はわざわざ平仮名表記として、口伝による補足説明を前提としているのである。本文第8段落に見るとおり、「口伝アリ」との但し書きは、まさしくこのことを物語っている。文書は谷村家はじめ代々の先人のおかげで、今日まで伝わったのであるが、いうまでもなく口伝の部分は断絶している。しかし、この口伝の部分を理解しなければ、相伝を得たことにはならないのであって、この口伝とそれを必要とする語句そのものが千年の謎ということになる。
 「語句が謎」などというと、次元の低い話のように思われてしまうかもしれないが、文章の最小単位である語句に当てる漢字が誤っていて、どうして全文の深い理解ができるだろう。最初の出発がまちがっていれば、とんでもない方向に進むことになる。正確な語句の理解があって、初めて、その内容が映像として浮かび上がってくるのである。例えば「さき」である。これに「前」という漢字を当てて、「前方」と解釈してはじめて、第4段落の「嶋のさき」も、第8段落の「はしたなくさきいでたる石」も、正しく理解できるのである。本書において「類似用語」にこだわったのも、そのような理由からである。
 作為的な平仮名表記や「嶋・島」などの区別を見てもわかるように、『作庭記』は、その記述において、一字一句に細心の注意を払っている。それらを正しく理解してはじめて、文章の真意は伝わるのだから、一字一句を謎としてこれからも謙虚に解明していく必要がある。まだまだ秘められた謎はありそうである。