美の条例

はじめに
何かが生まれた

 神奈川県真鶴町は、 人口1万人弱の、 神奈川県では下から2番目に小さな町である。 この町は、 1990年突如全国的に有名になった。 真鶴町がマンション開発に対して「水を出さない条例」をつくったというニュースは、 あっという間に全国に広がり、 人々はそのニュースを様々な思いで受けとめた。

 折からの開発ラッシュに悩んでいた自治体から見れば、 「水を止める」という手段は開発を食い止める切り札であった。 その意味では拍手喝采である。 しかし、 この手法は、 かつて「水を止められた」事業者と「水を止めた自治体(市長)」との間で裁判となり、 自治体側の完敗注1となって終わっていた。 宅地開発等指導要綱違反だとして、 水を止めるのは、 水道法の「正当の理由」に当たらないというのである。 今回は大丈夫なのであろうか?

 建設省や神奈川県も裁判所と同じ論理であった。 たしかに開発ラッシュは困るが、 現行法でもコントロールすることができる。 それをしないのは真鶴町の努力不足だ。 もし現行法でも足りないというのであれば、 どういう方法ならいいのか、 「代案」を示して法改革などを提言していくのが正道というべきであろう。 それをしないで、 「水を止める」などという、 いわば「違法条例」を制定するのは自治体の権限を超えている。

 それでは直接の当事者である市民と事業者はどう反応したのだろうか。 1980年代後半から1990年代の開発ラッシュは、 「アーバン・ルネッサンス」という中曽根内閣の都市政策によるものであり、 それは真鶴町にも地価上昇をもたらした。 「みかん生産」はかんばしくなく、 農業収入だけでは相続税を払えない。 そこで土地を売却した、 というのがマンション開発につながっていった。 農家から見れば、 マンション業者は土地を高く買ってくれる「福の神」であった。 しかし、 周辺の町民から見れば、 マンション開発は青天の霹靂であった。 この町では、 これまで「町役場」、 「小中学校」を除いては中高層建築はなかったのである。

 町民は、 開発中止を事業者に訴え、 さらに町役場に対策を講ずるようにアピールするようになった。 町民と事業者、 事業者と町役場との間に対立が生まれ、 そのトラブルに巻き込まれて、 助役が、 次に町長が辞任した。 そこで改めて「開発」をめぐって阻止強行派と穏健派が「町長の椅子」を争い、 強行派が勝った。 「給水規制条例」は町長の公約を実行したものであった。

 他方、 これによって開発を阻止される事業者の対応はいくつかに分かれた。 そのころから、 さしものバブル経済にもかげりが見えてきた。 渡りに船で撤退した方がよいとするもの、 何とか設計変更をして町の条件にあわせて生きのびようとするもの、 あるいは「給水規制条例」は違法として裁判で争うなどである。

 それらの様々な思惑の中で、 全町民が次の町の政策に注目した。

 「給水規制条例」を制定した現町長三木氏とこれを支える役場スタッフは、 実はもう一つ先の政策に苦しんでいた。 それは端的にこういう疑問であった。 「給水規制条例」では、 たしかに開発を止められる。 業者は「裁判」を起こしてくるかもしれない。 それは受けて立つしかない。 覚悟ができていた。 しかし、 その後町はどうなるのか。

 町の主力産業である農業(みかん)、 漁業、 石材業、 観光業(民宿など)の担い手はいずれも年をとってきている。 高齢化社会は真鶴町でも確実に進行しているのであり、 これら産業を「後継者難」によって内部崩壊させてしまうかもしれない。 このままで若い人たちに「家業」を継げということができるだろうか。 外人部隊による売り逃げ専門の開発ではなく、 町民の役に立ち歓迎される「まちづくり」というのはないのだろうか。

 全国を見ると、 「一村一品運動」をはじめとして多くの自治体が「町起こし、 村起こし」に全力投球している。 三浦市から下田市にかけて、 この相模湾沿岸の町は、 消費者や観光と結びついた漁業や新しい観光地づくりに必死である。 それでは真鶴町はどうしたらよいか。 真鶴町には温泉がない。 これといって決定的な観光名所も、 アッと驚くような「名産品」があるわけでもない。 このひなびた小さな寒村が生きのびる道とは何か。 開発阻止政策の裏側には、 考えてみれば、 気の遠くなるような宿題が忍び寄っていたのである。

 都市計画とは、 本来それぞれの都市で困っている問題について的確に対応するということである。 しかし、 このバブル時、 都市計画は立ち往生していた。 当時、 私達著者3人、 五十嵐は法律家、 野口は都市プランナー、 池上は建築家として、 地価高騰とそれがもたらした過密と過疎の拡大、 建築と都市への決定的なダメージにどのように対応するか、 考え悩んでいた。

 その3人にとって、 そのころ専門領域を超えて共通の関心事となっていたのが、 クリストファー・アレグザンダー(アメリカ・カリフォルニア大学バークリー校教授、 建築学)の『パタン・ランゲージ--環境設計の手引注2』であった。 3人は、 この「パタン・ランゲージ」を条例に、 都市計画に、 そしてまさに建築として「実現」できないかどうかを様々な方法で模索していたのである。

 五十嵐は、 1992年都市計画法改正にあたって、 政府案に対して「地方分権」の観点からの「対抗案」を準備していた。 野口は、 アメリカの「成長管理の都市政策」を学ぶと同時に、 その精神をこの都市計画法改正の中心的論点となっていた「市町村マスタープラン」にいかそうとしていた。 また池上は、 このアレグザンダーの理論を実践しようとする建築家などの組織「チームX注3」の過去のいくつかのプロジェクトの延長上に、 それらを超えるものを探していた。

 真鶴町と私たち3人の出会いは、 いわば「運命的」なものであったといえよう。

 1992年のある日、 真鶴町役場の2階会議室の窓は全部黒いカーテンで覆われ、 中でスライドが写されていた。 イギリスのウエストミンスター寺院の天井、 インドの漆喰の小屋と少年、 韓国ソウルのオールドタウン、 日本の寺社の瓦屋根。 スライドは、 「場所を超え、 時間を超え」て生起した建築と町の「名づけえぬ質注4」を捉えていた。

 スライドが終わってカーテンがあけられ、 そしてそこから見える真鶴町の風景。 町長も職員も全員が一様に、 真鶴町に最も欠けているものが「美」であることを瞬間的に了解したのである。 しかし、 真鶴町の「美」がどんなものであるか、 いまだ誰にもわからなかった。 それでも「美」を求めて生きていく姿は「正しい」ものであり、 そのように生きることが「人生」だということを確信したのであった。

 窓の外に見える風景は、 役場のほとんどの人にとって、 生まれてこのかた見続けてきた風景であった。 今見ている風景もそれと寸分も違うところがない。 しかし、 スライドを見た後は何かが異なって見えた。 何が変わったのか。 それは見ている自分である。 町はある種の文脈(美とそのシークエンス)を持つべきである。 しかし、 このままでは、 真鶴町はその文脈から大きく逸脱していくということがわかったのである。

 「美の条例の制定」はその場で決まった。 しかし、 それはどのようにしてつくることができるのか。 真鶴町の美を探し出すこと。 「条例案の作成」、 「運用規則案の起案」、 「住民説明会」、 「議会」、 「運用」、 そして「具体的につくってみること」まで、 すべてが実験の連続となる。


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