美の条例

あとがき

 私達は、 本著を執筆するにあたって、 ある試みを誓った。

 それは、 「美の条例」が「有機的秩序」を目指すものであるように、 本著もまた3人が「有機的秩序」により統合され、 一人称により執筆されるということである。

 私達3人には、 法律家、 都市プランナー、 建築家という、 本著でしばしば取り上げてきた「近代的」な専門的領域を持っている。 法律家、 都市プランナー、 建築家は、 それぞれ異なる思考方法とそれによって規定される文体がある。 特に、 制度には法律という厳格な表現が要求される。 一方、 建築はより洗練された創造的思考とそのための表現が要求される。 このように異なる思考と表現を、 一つ一つの文章において融合させ「有機的秩序」を生み出さなければならない。

 それは、 「自己の意図や見解を捨て去り、 自分の内なる声に耳を傾けて」、 すなわち無我となってはじめて可能となるものであった。 一度書いた原稿が、 相互の批判により、 また内なる声の批判により削除されることも度々であった。 削除された後、 何週間も文章が出てこない時期もあった。 それはいつしか、 それぞれの専門的領域に取り込まれてしまっている自己の否定であったからである。

 私達は、 旧来の専門的領域を否定する作業を「美の条例」と「コミュニティセンター」に結集し、 本著を執筆した。 その「質」が読者に伝わるかどうか、 この目論見が成功したかどうかは、 読者や後世の判断に委ねなければならない。 しかし、 私達の中には、 困難な作業の中で悪戦苦闘した者にしか味わうことができない、 言葉ではいいがたい「喜び」も見えてきたような気がする。 そして、 それは、 内なる声を揺り動かし、 次へのたくらみへと発展させる力になるだろうことを確信している。

 はじめて「パタン・ランゲージ」に出会い、 アレグザンダーと出会った時の感激。 それに引き続いて「盈進学園東野高校」を建設する過程で学んだ様々なこと。 その教えを実現するために、 日本の厳しい制約の下で行われた「泰山館」などの小さな建物の実験、 そして個々の建物から条例を経て「まちづくり」へ、 この志を持続させる力が沸き起こってきている。

 さて、 本著を企画し執筆する過程で、 「阪神・淡路大震災」が起きた。 その直後、 私達は長田の町を訪れた。 とりあえず、 私達はただ立ちすくむだけで何もすることができなかった。 祈ること以外に私達に一体何ができるのか。 私達は、 何かにつき動かされるようにして、 被災者や仲間とともに、 数カ月後「長田夏の家」を建設した。 そのわずか3日間の建設現場には、 「盈進学園」のプロジェクトに参加した仲間、 米国の成長管理政策の旅をした仲間、 「コミュニティ真鶴」を建設した仲間、 わが国の都市計画を憂い新しいまちづくりの試みを進めている仲間がいた。 そして、 本著の出版社である学芸出版社の編集者もいた。 運命的な出会いとともに、 ここにも「有機的秩序」を感じた。 阪神復興も「美の条例」と深いレベルで共通している。

 本著の執筆と重なり合って忘れることのできない出来事となるであろう。

 最後に、 真鶴町での新しいまちづくりの試みと本著の執筆にあたってお世話になった人々に感謝したい。

 なによりも、 真鶴町の三木町長、 議会、 行政の職員、 町民の方々に心から感謝したい。

 真鶴町の試みは、 都市計画学会賞(1995年)とまちづくり学会賞(1995年)を受賞した。 尽力していただいた両学会の方々、 特に、 真鶴町との運命的な出会いの介添え人である都市計画学会に感謝したい。

 本著の執筆にあたって、 写真をご提供いただいた平賀茂氏、 長い間多大のご心配とご苦労ををおかけした学芸出版社の前田裕資さんと宮本裕美さんに感謝したい。

 真鶴町と長田の大地と人々に「美」が復活することを祈って。

     1996年2月25日
  五十嵐敬喜、 野口和雄、 池上修一


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