都市論の脱構築

あとがき

 都市論を展開するには、ベースとなる哲学が必要であることは言うまでもない。都市とは何かという問に答えるためには、人間とは何かということを追究する哲学が必要であるだろう。そういう点から言えば、筆者などは都市を論ずる資格がないかも知れない。しかし、敢えて都市論の脱構築を論じたのは、先に『有機的都市論―都市計画におけるパラダイムシフト』を執筆していて、ここでの主張をもう一歩進めるべきであると考えていたからである。というのは、都市に加えられる時代の圧力がこの十数年の間に一層高まってきたからである。しかし、筆者には人間を論ずるにふさわしい哲学的素養に欠けるが、哲学者の中村雄二郎明治大学名誉教授や今村仁司東京経済大学教授、および文明史家の伊東俊太郎東京大学名誉教授の著作から多くのことを教わることができたと感謝している。
 ことの善悪を判断する場合、あるいは行動を起す場合のよるべき規範について、できれば、価値のヒエラルキーのできるだけ上位の価値に照らして考えるとか、単一の規範ではなく複数の規範に基づいて考え、行動することがますます必要になってきた。世の中が次第に複雑になってきたからであろう。そのためには、より広い視野が必要であることは言うまでもない。専門分野のディシプリンということに対応して言えば、モノ・ディシプリンではなくマルチ・ディシプリンあるいはインター・ディシプリンに基づく考察が必要であるということになる。あるいは、自分の利益を越えて社会的利益を、時には国家的利益を否定して人類的利益を、人間中心主義を越えて生命中心主義へというより包括的な思想的基盤に立って、都市を論ずることが大切であると言うべきであろうか。
 そういう視点に立って言えば、都市論の脱構築の方向を示唆するキーワードを羅列すれば、以下のようになるであろう。すなわち、システムの単純系から複雑系へ、ディシプリンのモノからマルチへ、行動規範のシングルからマルチプルへ、思考のベクトルの分化から統合へ、人間と人間、人間と自然、人間と歴史との関係においては、対立から共生へということになるであろう。
 この頃、歳のせいか、「縁」ということを感じるようになったが、縁というのは人間存在を考える場合のそれこそキーワードであるように思われるし、都市を考える場合に当たっても欠くことのできないコンセプトであるように思う。近代西欧合理主義というのは、すべての縁を断ち切って、モノやコトを孤立化させ、単純化することによって、モノやコトの本質を明確にし、理解することができるという思考法であったように考えられる。しかし、モノやコトをあるがままに理解するには、インビジブルな数多い多様な縁によって結ばれた状態でのモノやコトを理解することでなければ、本当に理解したことにならないのではなかろうか。そういう意味では、拙論も縁が薄い論説であることを反省しなければならない。
 また、モノやコトの良し悪しを、価値階統のより高い階梯から眺めることが大切であるが、より高い階梯における価値とは、究極的には宇宙的視座から見た価値ということになるであろう。それは空海の言う大我、つまり、宇宙との一体化という認識の深みからの価値評価ということになるのかも知れない。しかし、それは我々凡人には不可能であることは明らかであり、凡人は凡人にふさわしく、宇宙の高みからではなく、世俗世界の地に足をつけて都市を眺めることが関の山であるだろう。さらに言えば、その凡人も凡人一般ではなく、生活者としての視点が必要であることを我々は既にジェイコブズから学んだし、それにつけ加えるとすれば、社会的に弱い立場におかれた生活者の目から都市を見ることが大切であると言うべきであろう。しかし、観念としては分かっているつもりであっても、これはなかなか困難なテーマであり、読者からの御教示をお願いしたい。
 まえがきでも触れたが、この小著を出版するに当たって、かなり長い期間、編集作業をこなして頂いた友人達の温かい友情に対して衷心より感謝しなければならない。手前勝手な論旨の展開を、読者の視点からチェックして頂いた箇所も少なからずあったと思う。また、情熱のエディターである前田裕資氏からも同様のコメントや修正箇所の指摘を頂いたことに対しお礼を申し上げねばならない。既発表の拙論を束ねた形であったので、重複箇所の排除に一苦労させられたが、何とか諸氏のお陰で曲がりなりにも一応の体裁を整えることが出来たのではないかと感謝する次第である。

二〇〇二年一〇月一八日
箕面市瀬川にて  大久保昌一