はじめに


──僕がポートランドを選んだ理由

 初めてポートランドを訪れたのは2005年。全米の公共電力・ガス会社が集うカンファレンスに参加するためだった。2日間の会議中、屋内に缶詰で、外に出たのは空港とホテルの移動だけだったので、残念ながら街の印象があまりない。当時の僕は、ただ日々の仕事に熱中して、ゆっくり街を歩くゆとりがなかったようだ。
 その後、2008年にワシントン州南部のカウリッツ郡政府の要請で、10年後を見据えた経済開発構想を立てるプロジェクトにコンサルタントとして関わり、新しい工業団地の用地選定や産業誘致の戦略づくりを担当した。ポートランドから北に約1時間のところにあるこの郡には空港がないため、毎回ポートランド空港を使った。2回目の出張のとき、仕事が思ったより早く切り上げられたので、翌日の午後の便で帰る前に同僚と一緒にポートランドの街を見に行くことにした。翌朝、早起きしてまだ暗いうちに田舎町のホテルを後にした。久しぶりのポートランドに胸が躍った。
 空港からライトレール(新型路面電車)に乗ると、朝焼けのフッド山を見ながら30分ほどでダウンタウンに着く。郊外の豊かな自然環境と洗練されたダウンタウンに驚いた。洒落たショップが並び、カジュアルだけどセンスのいい人たちがオープンカフェで寛いでいた。街を歩き回っていると、いろんな人に出くわした。学生らしき若者、派手な格好をしたアーティスト風のおじさん、アジア人のビジネスマン、ドラッグクイーン、ホームレス。でも皆が街に普通に溶け込んでいた。
 ここに住めば車はいらないかもしれない。街の人々は自転車や公共交通機関をうまく使いこなし、車を使わない人たちが何千人もいるという。それまでアメリカに17年住んできたが、そういう街に出会ったことがなかった。
 僕は、南ミシシッピ大学大学院時代に大手電力会社の経済開発部でインターンとして働き始め、2001年の9・11の直後からミシシッピ州の建設会社で通訳兼営業コーディネーターとして勤務した後、2004年にテキサス州のサンアントニオ経済開発財団に転職し、2008年からは経済開発コンサルタントとしてアメリカ各地の政府機関に再生可能エネルギー開発を盛り込んだ経済政策を説いて回っていた。ちょうど2008年のリーマンショックの頃から、経済成長と地球環境の保全の両立について真剣に考えはじめ、自分が理想とするサステイナブルな生活と現実との大きなギャップに疑問を感じるようになった。
 当時住んでいたサンアントニオ市は全米7番目の都市で、郊外化が進んで街は大きく、家からダウンタウンまで車で30分、混んでいると1時間近くかかった。ちょっとした買い物や人に会うにも車で片道20〜30分かかるのは当たり前で、1日のうち車のなかで過ごす時間がとても長かった。1週間に一度ガソリンを満タンにする必要があり、車のメンテナンスも結構な負担だった。電車は走っておらず、バスの運行頻度は少なく各ラインの連携がよくないため、利用者は経済的な理由で車を持てない者がほとんどだった。
 一方、ポートランドのパール地区には、おしゃれなブティックやカフェ、レストランが徒歩で行ける距離に点在し、ダウンタウンが一望できるワシントンパークへは徒歩15分。ダウンタウンを流れるウィラメット川の対岸へ自転車で10分も走れば、ネイバーフッド(近隣地区)ごとに個性的なレストランやバー、小売店などに出くわす。街中にZipcarやcar2goといったカーシェアリングの車が点在しているので、どうしても車が必要なときは、必要な時間だけ借りればいい。これが可能なネイバーフッドがアメリカにいくつあるだろうか?
 僕は、この街に住むことに決めた。
 早速、今までの学歴や職歴を活かせる経済開発の仕事を求人サイトで探したが、簡単には見つからず、とりあえず最新の履歴書を各サイトにアップロードしてしばらく待つことにした。もちろん待っている間も普段の仕事を続け、毎週のように出張で国内外の街を訪れるたびに、ポートランドへの憧れはますます強くなっていった。
 2011年の秋、アップロードした履歴書のことなどすっかり忘れていた頃、ワシントンDCにある国際経済開発協議会(IEDC)に勤める知人から僕にピッタリの仕事があるとメールが届いた。早速メールに添付されたリンクを開くと、Portland Development Commission(PDC)のBusiness & Industry Manager, Clean Technologyの職務内容が載っていた。ポートランド市開発局のビジネス・産業開発マネージャーの職で、職務内容は市の国際事業開発とクリーンテクノロジー産業振興の戦略づくりと実行のマネジメント、州政府や都市圏内の関係機関との連携など。上司は経済開発部長。部下3名。確かに当時の自分にはピッタリの仕事に思えた。僕は早速、履歴書のコピーを送った。
 2週間後、書類選考を通過したことを知らせるメールが届き、さらに電話面接に臨んだが、手ごたえはなく、もうダメかなと思いはじめた頃、2年前から苦労して進めてきた再生可能エネルギーのプロジェクトの一つが大きく進展した。それは、地元サンアントニオの電力会社CPS Energyが発電源を再生可能エネルギーに転換するにあたり、100メガワットのメガソーラーの開発と並行してソーラーパネルの製造工場を誘致するというビッグプロジェクトだった。誘致する企業を世界中から募り、交渉を続けること数カ月、僕がそろそろPDCへの転職を諦めかけた頃に、CPS Energyがメガソーラーの開発パートナーとして韓国のOCI Solar Powerを選定し、アトランタにあったOCIアメリカ本社をサンアントニオに誘致して大規模な製造工場を建設することを発表したのである。
 PDCから最終面接のためにポートランドに来て欲しいという連絡があったのは2012年1月中旬、ちょうどCPS Energyとの向こう1年間のコンサルティング業務の契約更新の交渉を始めたときだった。そして、CPS Energyとの契約更新の前日、僕はポートランド市開発局の仕事を勝ち取った。