産業観光の手法
企業と地域をどう活性化するか

はじめに

 「産業」の資源が「観光」になる。こんな発想が市民権を得たのは恐らく1990年代以降のことであろう。いわゆる「産業観光」と呼ばれる新たな観光の形態は、1990年代に、二つの大きな系譜・流れのもとに発展し、今日の姿として定着してきた。
 その一つは、近代の象徴でもある「産業遺産」(industrial heritage)とその活用の流れ、もう一つは現役の工場・工房など、生産現場の見学・視察や体験といった形での発展である。
 最初の「産業遺産」活用の系譜では、古くは前近代から続く伝統産業とその遺産や、いわゆる「近代化産業遺産」がある。人間の自然への働きかけは、農耕技術の発展とともに大規模化したが、これら農業等の遺産、とりわけ灌漑施設・治水施設などの土木遺産をはじめ、商品経済の成立・発展とともに各地に残る製造施設やインフラ、商業施設などの遺構なども、広い意味で産業遺産に含まれる。
 しかし、今日大きな注目を集めているのは、近代以降の鉱工業などの遺構である。20世紀は「工業の時代」と言われるが、近代の革新的技術の発明・導入、世界規模のマーケットの成立が、大規模な生産と流通、これらに係る多様な近代産業を生み出した。わが国では欧米の近代化に遅れること約百年、19世紀末から始まった「産業革命」を通じて、欧米へのキャッチアップに成功し、戦後の高度成長時代を通じて、世界に冠たる工業国家・ものづくり国家としての成功を収めた。
 しかし、これらの飛躍的な発展の反面で、「公害」という負の社会問題、人口の都市集中に伴う大都市問題や景観破壊、コミュニティー崩壊、地域経済の疲弊といった、大きな代償を伴った。わが国がいまだ深刻な公害問題に悩む1972年、資源・人口・経済・環境破壊などの全地球的な問題に対処するために設立されたローマクラブは『成長の限界』を提言した。そして、この年に開催されたユネスコ総会では、遺跡・景観・自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件を保存するための世界遺産条約(「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」)が締結された。成長の限界と遺産保護、一見無縁と思われる二つの動きが重なったのも1970年代初頭という、この時代の大きな特色でもある。
 その世界遺産条約をわが国が批准したのは、欧米諸国から20年遅れの1992年のことである。その最初のシンボルになったのが、1996年に世界遺産登録された広島・原爆ドーム(Atomic Bomb Dome)である。いわば、近代の「負の遺産」の象徴でもあった原爆ドームの世界遺産登録は、私たちの近代に対する「眼差し」の大きな転換点を象徴する出来事でもあった。
 以来、産業系の遺産は、2007年の石見銀山(「石見銀山遺跡とその文化的景観」)の世界遺産登録と富岡製糸場(「富岡製糸場と絹産業遺産群」)の世界遺産暫定リスト入り、そして2013年のユネスコ世界遺産センターへ正式推薦書の提出、さらには2009年の「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産暫定リストへの追加掲載など、各地の産業遺産が大きな注目を集めている。
 とりわけ、「富岡製糸場と絹産業遺産群」は、世界遺産委員会の諮問機関である国際記念物遺跡会議(ICOMOS)の現地調査結果を踏まえ、2014年4月には「登録」が勧告され、同年6月にドーハ(カタール)で開催された第38回世界遺産委員会において、正式に世界遺産に登録された。石見銀山も産業の遺産であるが、これは近世・江戸期を主とする遺産だが、いわゆる近代化産業遺産としては、富岡がわが国初である。
 他方、もう一つの系譜である、現役稼働の工場・工房など、生産現場の見学・視察や体験を主とする産業観光は、わが国では激甚な公害の経験を経た1960年代に、一般国民を対象とした工場見学としてスタートした。企業としての公害対策努力や安全・安心な製品等のPRなどを目的とする、いわば企業の広報普及活動の一環という位置づけが強かった。その後、1990年代に入ると、特に食品や飲料、繊維あるいは産業系のミュージアムなどが主となり、不特定多数の見学者を団体で受け入れるなど、観光化・大衆化が進んだ。
 これら産業観光を受け入れる企業の目的・動機としては、今日においてもCSR(企業の社会的責任;corporate social responsibility)や広報宣伝が主である。しかし、こうした位置づけでは、企業が組む一定の予算のもとに展開するがゆえに、入場者数に制限を設けたり、工場が稼働しない土日祝日等の見学を受け入れないなど、観光という観点からみると少なからず問題を抱えていることは否めない。
 だが、2000年以降になると、産業観光の大衆化が一段と進み、食品・飲料や繊維製品など、消費者マーケットに直結した産業・企業の中には新たな動きも見られるようになった。それは、従来のように稼働している生産現場をそのままご覧いただくというより、工程の全部または一部を、いわゆる「ご覧いただくための工場=ファクトリーパーク」として新たに投資・建設するといったケースである。
 来場者がある一定数を超える人気事業所では、これら投資に伴う年間来場者数や一人あたりの売り上げ予測を行い、投資に踏み切る。それは、従来のような工場・工房の開放や工場等見学から一歩脱して、「事業としての産業観光」を目ざす、いわば次世代型とも言うべき新たな動きでもある。
 翻って、わが国の観光は、1960年代後半から70年代にかけて大衆化と大規模化の道を歩んできた。しかし、1980年代末のオイルショックを境に、いわゆる成熟化の時代を迎えた。旧来のような団体型旅行は激減し、旅行単位は小グループ化・家族化が進んだ。また年間総宿泊客数は伸び悩み、一人あたりの宿泊日数も減少基調に転じた。こうした旅行行動の変化や顧客価値の変化を早くから予測し、新たなビジネスモデルを導入した地域もあるが、多くの観光行楽地・温泉地などは顧客の減少で苦境に立たされた。
 こうした変化の時代に生まれたのが、地域の新たな資源を集客交流資源として活用し、独自の編集とプログラム化を図った、いわゆる「ニューツーリズム」、あるいは地域が主導となって新たな観光プログラムを編集・プロモーションする「着地型旅行」と言われる分野である。そのモデルの一つと目されたのが「産業観光」である。
 本書は、これら産業観光が注目されはじめた社会的背景や意義、産業観光における固有の編集視点(第1章)などとともに、これら産業観光に対する近年の顧客ニーズや参加動向、潜在需要など、顧客側からみた産業観光の実態(第2章)、さらには、産業観光資源を保有・活用する企業側の新たな動向や意識とその変化、最新の戦略的な取り組みなどについて取りまとめた(第3章)。
 他方、産業観光は「観光」ではあるが、その取り組みが、観光まちづくりや地域の新たな産業や雇用の創出など、地域活性化を大きな目標としている。第4章では、これら産業観光を通じた観光まちづくりや産業創出を進めるうえでの編集視点や課題といった点について、取りまとめた。

 本書は、このような内容で取りまとめたものであり、主に次のような方々にお読みいただきたいと願っている。
 まずは、いま現在、産業観光に取り組んでいる事業所およびこれから取り組みを始めようと検討中の事業者の方々。そして地域で産業観光のとりまとめ役となっている商工会議所・商工会や産業観光の推進を目的に設立された協議会などの推進組織の会員やご関係者の方々である。企業のなかには、産業観光がブームになるとともに、新たに参加したというケースも少なくないが、次の展開について悩みを持っているところも少なくない。また、企業の業績が芳しくなく、産業観光推進のための予算捻出に苦慮している企業もあろう。これらの企業にとっては、産業観光の推進が、企業にとってのブランド価値や製品・企業のイメージアップに果たす役割とともに、事業としての継続性を図る方策について検討している場合も多いと思われる。
 さらには、県・市町村の観光関連部局や観光協会、各種産業政策や産業支援策を担う担当課の職員の方々、産業観光に興味・関心をもち、実際に取り組んでおられるNPOや市民組織のご関係者の皆さまなどにも是非ご一読いただきたい。産業観光は地域の産業や観光政策、観光まちづくりに果たす役割が大きく、その手法についての検討が求められているものと思われる。
 もちろん産業観光に係る現場の最新データなども豊富に掲載した本書は、観光やまちづくりを研究対象とされている大学関係者や学生、個人の研究者の方々にも、是非お読みいただきたいと願っている。
 本書を通じて、地域における産業観光の取り組みのヒントとなり、地域産業の創出や観光まちづくりに貢献できるならば望外の喜びである。

2014年10月
産業観光推進会議
(事務局 公益社団法人 日本観光振興協会)