白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか




 この本の若い執筆者たちと共に、都市計画とは何かという本質的な問題についての勉強会を始めたのは2010年、3.11東日本大震災の前年だった。
 僕は1956年頃から、当時在籍していた東京大学アメリカ科でのアメリカの地域研究の一環として、ニューディール時代のテネシー川渓谷開発という広域圏の総合開発に興味を持ち、卒業論文のテーマとした。また、大学卒業後の仕事として何をしてよいかがわからないまま、遅まきながら、建築の勉強を始めた。日本大学工学部ではたった2年しか建築の勉強はしなかったが、いつの間にか、都市計画という領域にのめりこみ、卒業論文では「コミュニティー研究序説」という大仰なテーマに取り組んだ。当時の日本では、都市計画に関する文献などほとんどなく、もっぱら欧米の文献から学習していた。だから素直に、先進諸国で展開しつつある都市計画の現場と理論を吸収しようとしていた。
 その後1960年、建設省に「建築職」で入省した。入省前は、そんなことを知る由もなく能天気だったが、それが身分制とも言うべき縦割りの仕組みに絡めとられる選択だったことを知って愕然とした。国際的な水準の都市計画から学習を始めた者から見ると、何ともやりきれない事態だった。  同じ建築職でも、営繕局という公共建築実務を手がける部局が別にあり、僕がいた住宅局内にも住宅行政をする派閥と建築行政に携わる派閥が歴然と存在し、都市計画部局で働く専門家は、また全く別の人種であるかのような人事が行われていた。
 幸い、入省後2年足らず、1962年にアメリカへ都市計画を勉強に行くことにした。1年間だったが、ペンシルバニア大学大学院で、都市計画や都市デザインの勃興期がピークを迎え、ポストモダン時代への予兆が出始めているアメリカの空気を吸ってきた。当時、コンピュータを駆使して非常に注目されていたリジョナル・サイエンス(地域科学)、その知見を背景に展開しつつあったトランスポーテーション・スタディ(交通計画)に触れ、住宅計画を学び、ランドスケープの考え方や技術の革新を先導していたアイアン・マッカー教授の仕事を垣間見た(彼のスコットランド訛りの英語には歯が立たなかったが)。同時に、設計主義的なマスタープラン批判と漸進主義(インクリメンタリズム)、市民参加の哲学の萌芽、日本を含む低開発途上国開発理論なども学んだ。広域圏の計画から、地区規模の都市デザイン、交通計画、住宅計画、ランドスケープ・デザインなど幅広い領域が学習の対象であり、このような総合的な取り組みこそが近代都市計画の本質だと確信した。
 帰国後は建設省で、住宅行政、建築行政、都市計画行政など様々な領域で働かせてもらい、当時、首都圏整備委員会の所管だった首都圏計画や経済企画庁の所管だった全国総合開発計画にもわずかながら関与できた。茨城県に出向し、住宅課長と都市計画課長という現場経験も持つことができた。
 そもそも東京大学に都市工学科ができたとき、創設を主導した高山英華先生は、おそらく僕が学んできた欧米流の近代都市計画を日本で確立する意図をもって始められたと思うけれども、残念ながら実態はそうならず、日本の都市計画は前近代的な法制や組織体制のまま今に到っている。
 さらに、軍事戦争には負けたが、戦後の経済戦争に勝って高度な成長を遂げ、ジャパンアズナンバーワンと言われるような国の成長段階のなかで仕事をしてきた人たち、縦割り社会での成功体験に自信を持つ世代には、日本の都市計画の歪みを歪みとして見ることがなかった。見えていても、あえてそれを口に出す必要性を深刻に感じることがなかったのかもしれない。
 その世代に育てられたさらに若い世代は、日本の高度成長期が終わり、人口の少子高齢化が実体化する社会のなかで教育されているので、本当の意味での近代的な都市計画を学んでいないのではないか、少なくとも体験的には、近代都市計画の前提になっている、総合的、分野横断的な視野で仕事をすることができなかったのではないかというのが、僕の長い間の危惧だった。
 ところが、僕の孫世代には、子世代とは違う歴史的な感覚、国際的な感覚を備えた人たちがいることに気づいた。建築家大高正人の記録を書きとめる仕事に中島直人を巻き込んだことがきっかけとなり、彼を軸に僕の近代都市計画に関わる話を聴いたうえで、日本の都市計画を語り合う勉強会が発足した。最初は近代都市計画を鳥瞰的に眺めるテキストとして、ピーター・ホールとジョン・フリードマンを選び、さらに、中島さんがニューアーバニズムの最近の動向を報告した。
 そこに、3・11の東日本大震災が発生した。そこには物理的空間が一旦消去されてしまった、タブラ・ラーサ(更地)の空間のうえに、いかに未来を構想するのかという、近代都市計画の初期において必要不可欠だった姿勢を持たざるを得ない状況があった。
 しかし、若い世代のプランナーにとっては、すでにでき上がっている都市的な文脈のなかで、過去と現在をつなげながら、漸進的に仕事をしていくことが善であって、連続性が都市計画のキーワードである。そんな仕事経験しかない彼らに未知の場が発生してしまった。
 そこでは、人口増、経済成長を当然の前提としていた戦後近代都市計画の時期とは全く違う社会経済的な条件を前提としなければならない。開発途上国として、先進国を追い上げ、工業化路線をひた走ってきた時期は完全に終わり、いまや先進国として後発国の追い上げに対処した成熟した経済政策を採り、地域政策に反映できなければ生き残れない時代になっている。しかも人口の少子高齢化が急速に顕在化し、被災地での生活再建のあり方は、大戦後の戦災、引き揚げ時のあり方とは決定的に違う。そして、高齢化が進んでいる被災地では、日常生活の回復が、何よりも優先されるべき課題だという視点から目を逸らすことができないことを若い専門家としての経験からも体感してきている。
 つまり、なだらかに成熟と老化の道を辿れば済んだかもしれない時間が、震災によって暴力的に破壊されて、成熟と老化の道と同時に、それを支えるための部分的な成長のプログラムが不可欠な状況が、若いプランナーの前に立ちはだかったのだ。勉強会の若いメンバーたちも被災地の現場経験を経て、このことに気づいた。そして、勉強会は、俄然、活性化した。
 近代都市計画の歴史やその課題、問題点を根本から考え直し、さらに自分が置かれている日本の現場と時代を踏まえて、日本の都市計画をラディカルに考え直すことが始まった。各自の問題意識に支えられたテーマを選び出し、報告し、それを皆で議論する段階に入った。

蓑原敬