民主主義再生のためにすべきこと


はじめに


 本書は同志社大学政策学部が創設10周年を記念して刊行する「政策学ブックレット」シリーズの第1巻である。シリーズ全体を通して議論される政策とは、専制君主や独裁者によって行われるものではなく、現代民主主義国家において民主主義の手続きを経て行われる政策である。つまり社会では「民主主義」が行われていることを想定している。しかし、民主主義の理想に沿った政策決定は決して容易なことではない。たとえば、「一票の格差」という言葉が表わすように主権者たる国民が平等に扱われない場合や、「決められない政治」に見られる通り意思決定のプロセス自体が機能不全に陥ってしまうケースすら観察される。これらの問題は、政策を考える場合に、まずその基盤たる「民主主義」を振り返ってみることがいかに重要であるかを想起させる。本書の各章は民主主義の抱える問題をさまざまな観点から考察し、その再生のためになすべきことを議論している。

 国民全体の意見で物事を決定していくという民主主義の基本的原則の重要性は、第1章「子どものままじゃいられない」において確認されている。そこでは、物事の道理を見極め、自分自身と国民全体に成り代わって国を治める人間を選び、国民全体の意向に沿って彼らが職務を遂行していることを監視する能力を備えているものが「大人」であると定義している。そしてその根拠を、日本国憲法施行の年から中学校の社会科の授業で教材として数年間使用された『あたらしい憲法のはなし』に求めている。権力の独走や横暴を防止し、憲法で定められている選挙などの取り決めを実効性のあるものとするためには、大人になるという終わりのない課題に主権者は向き合わなければならない。

 第2章では、民主主義の手続きとしての選挙に焦点をあて、公正な選挙が行われれば安定した社会がひとりでに生まれるのか、という問いに発展途上国の経験から答えようとしている。発展途上国においては、かつては軍事政権・独裁政権がめずらしくなかったが、選挙に象徴される民主主義的な意思決定が近年行われるようになってきた。その動きが国際社会において総じて肯定的に捉えられてきた背景には、民主主義が平和な社会に繋がるという暗黙の前提があった。しかし、選挙が公正に行われることと、民主主義の基本的原則が尊重され安定した社会が実現することとは別のことであることが徐々に明らかになってきた。この章では、民主主義を成熟させるために何が必要か、選挙による政権交代を経験した発展途上国のタイとトルコで実際に起きたことを紹介しつつ検討している。

 第3章「政治的インタビューは機能しているか」では、テレビ局によるインタビュー番組を対象に、政治家のコミュニケーションの姿勢について分析している。政治家・政策立案者の政策課題に関する考え方を理解することは、有権者にとって重要なことであり、日本でも近年政治家へのインタビュー番組が注目を浴びるようになってきている。しかし、政治家は政策課題について質問を受けても、自分の意見を明確にすることを避ける場合が少なくない。三つのテレビ番組でインタビューを受けた46人の政治家が分析の対象となっているが、曖昧な「どっちつかず」の表現による回答が多用され、質問に完璧に答えているケースは一つもないことが明らかにされている。政治家によるこのような態度は政治に対する有権者の不信感を増すことにつながるだろう。

 民主主義の原則によれば、政策の決定にあたっては市民の意見が適切に検討・反映されなければならない。第4章「意思決定における市民参加の意義」では、「まちづくり」に代表される地域空間を一体と捉えた整備・管理・運営の課題を環境問題として扱い、望ましい環境を民主的に決定する支えとして、情報公開、参加、司法アクセスの三つの権利が保障されることの重要性を議論している。これらの権利は1992年にブラジルのリオ・デジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球環境サミット)で定められた原則の一つに謳われており、その理念を具体化した国際条約は2001年に発効した。この章では、日本においてこの三つの権利がどう守られているかを検討しているが、いずれにおいても改善の余地が大きいことが述べられている。

 民主主義の理想は国民の意見が政策に反映されることである。しかし実際には、社会を構成するすべての個人が当事者意識を持って公の問題に関心を抱き、冷静かつ丁寧な政策判断を行っている訳ではない。多くの国民にとって、政策は身近に感じられないのである。この個人と政策の距離を縮める仕組みとして、第5章「市民が政策に関わる社会実験」では「討論型世論調査」と呼ばれる政策への市民の参画手法を紹介している。この調査手法は、タウンミーティングなどの市民対話の手法よりも国民全体の意見をより良く代表することができ、「熟議」を通じて正しい情報にもとづいた分別のある判断の形成を促すこともできる。日本では地方自治体により先行して実施されていたが、2012年には今後のエネルギー政策をテーマに国主催の初めての「討論型世論調査」が行われた。

 民主主義が行われていると実感される場面は、選挙や国民投票を通じて国民が直接その意見を自由に表明する権利を行使するときであろう。しかし、民主的に政権を担う政治勢力が選出されたり、政策の方向が投票により決定されたからと言って、それだけでは民主主義が貫徹する保証はない。現代社会においては行政機構が巨大化・複雑化し、国民が選んだわけでもない公務員による政策決定への関与が強まることで、民主主義が形骸化する恐れがある。第6章「民主的行政の確立への遠い道」では、立法、行政、司法の三権分立を実現するために、いかにして公選政治家が行政をコントロールするかという課題を、政治と行政の関係についてアメリカで行われてきた議論を紹介しつつ考察している。行政コントロールの手段はさまざまあるものの、もっとも重要なことは、主権者たる国民が主体性を持って行政コントロールの担い手としての自覚を持つ事であることが主張されている。

 第7章「シビリアン・コントロールと軍の効率化」も行政コントロールをテーマとしているが、ここでの行政主体は日本を防衛する責務を負った防衛省および自衛隊である。武力を行使する能力を持った軍事組織を民主主義的な意思決定の枠組みに収めることは現代民主主義国家ではきわめて重要であり、軍事に対する政治の優先をまもるために、シビリアン・コントロールとして日本では文民政治家が自衛隊を統制することになっている。しかし、防衛大臣を補佐して自衛隊の活動を統制する仕組みのなかで、事務官僚である文官と制服組と呼ばれる幹部自衛官との適切な役割分担を構築することは、きわめて困難である。シビリアン・コントロールのための文官による制服組の統制を、制服組の軍事的専門知識の活用と両立させるための制度設計の試行錯誤が現在まさに進行中であることが語られている。

 最終章である第8章「「坂の上の雲」をぬけて」では、バブル崩壊以降の日本社会のほころびに起因して、民主主義にも疑いの目が向けられていることを指摘している。民主主義に対する信頼が低下している理由の一つは日本が国としての目標を見失っていることである。明治維新後の日本は植民地化を避けるために富国強兵に励み日露戦争を戦った。第2次世界大戦後の日本は豊かさを求めて高度経済成長を実現した。それに対して現在の日本は目標を失っているかのようであり、それが多くの若者が将来を見通せなくなっていることにもつながっている。将来の目標を尋ねられた時に自分なりの答ができる人を「大人」とよび、国民の多くが社会の目標について考え続けることで、社会も大人になり、成熟していくと論じている。日本にとっての目標を定めれば、それを実現するためにどのような民主主義を行うべきかという問いに対する答も見つかると結んでいる。

 以上八つの章にわたって議論される問題点だけを見ても、民主主義の理想を実現することの困難さがわかるだろう。主権者としての責務を果たすことは骨の折れることであり、選挙結果が意に沿わない者たちは民主的手続きを軽視する誘惑に駆られる。また、官僚たちは民主主義を隠れ蓑に公益を謳いながら自らの利益を追求しかねない。まさに英国の元首相チャーチルが述べたように、「民主主義は最悪の政治形態」なのかもしれない。しかし、チャーチルがその同じ文章に付け加えた通り、それは他の政治形態よりはまだましなのである。政策決定の背後にある民主主義を考えるきっかけに本書がなるとすれば、それは執筆者一同にとって望外の幸せである。

第1巻編者 川浦昭彦