創造農村
過疎をクリエイティブに生きる戦略

第3回創造農村ワークショップin長野県木曽町から


 2013年8月25日に長野県木曽町で、第3回創造農村ワークショップが開催されました。下記の4人のパネラーによるそれぞれの地域の報告は書籍『創造農村』に掲載していますが、ここでは後半のパネルディスカッションを収録いたします。

パネルディスカッション

パネラー  :入内島道隆(前中之条町長)
        大南信也(NPO法人グリーンバレー理事長)
        金野幸雄(一般社団法人ノオト代表理事)
        田中勝己(前木曽町長)
モデレーター:佐々木雅幸:大阪市立大学大学院創造都市研究科教授

佐々木:4人の皆さんの事例報告(書籍『創造農村』に収録)では非常に多彩な話が出ましたが、創造農村という切り口には、いろんなアプローチのあることがわかったと思います。そこでまず、会場から質問を受けます。

 佐々木雅幸

伝統工芸とアート

会場A:東京でデザイン事務所をしており、経産省の推進する事業の一環で伝統的工芸品産地プロデューサーとして活動しています。「日本の宝というのは何か?」というと、やはり「技」にあるのではないかと思います。技というのは日本の地域の地域性や伝統の中で育まれて残ってきたものです。世界的な評価を受けてきているもの、ただこれをもう少し力を入れてやっていくこと、これもアートの一つではないかと、私は考えていますが、先生方のご意見を聞かせてください。
佐々木:地域には伝統工芸のある昔の暮らしを支えてきた技があり、現代アートのアーティストを地域がどれだけ活用するかという話がありました。このアートと伝統工芸の「技」は、どういう関係にあるかという質問ですが、学者風に答えますと、ラテン語にアルテという言葉があって、アルティスとも言います。これは「技」であり「美」なんです。そこからアートが発生します、語源は同じものなんです。だから非常に親和性がある。
 日本語の「技」と書くのと、アートと書くのとは距離があるように見えるけど、同じだと考えていいと思います。そういったところから、現代アートに入っていくと「中之条ビエンナーレ」が、地域の技にどれだけ影響を与えたかをまず伺いたいと思います。

 入内島道隆

入内島:すごく難しい問題だと思います。中之条の「こんこん草履」は、熟練のお婆ちゃんが、1日かけてやっと2足できるのですが、それで1200円です。これでは生計を立てていくのは無理です。どんどん後継者がいなくなってしまうのです。

 こんこん草履

 何かデザインの力をプラスして、残っていくようにできないかと思って、エルメスの副社長や地元の工芸作家に相談しているんですが、簡単には答えが出てこないというのが現状です。「こんこん草履」は工芸品ではなく民芸品ですが、どうしたら時代にあったものとして残していけるようにするのか、やっぱりデザインの力、アートの力ではないかと私は思っています。しかし、上手くできていないのが現状です。
佐々木:同じことを、金野さんに聞きましょうか?

 金野幸雄

金野:篠山では、伝統工芸で丹波立杭焼があります。今そういうものが脈々とあって残って来たとおっしゃったんだけど、ほとんど残っていないと思うんですね。だから何とか残さなければいけない。結局は「人」なので、佐々木先生が言ったように、やっぱり職人を育てないといけないわけです。新しく作ることは、僕らはあまりやりません。これまでのものを、次の世代にどう繋げるかということを中心にやっています。新しい現代版徒弟制度のようなものを作って、ちゃんと基準を作り、現行にあてはめるということ、当たり前のことだけれども、そういうシステムを作らないと駄目じゃないかと思って、今、篠山でやろうとしています。
佐々木:大南さん、どうぞ。

 大南信也

大南:もともと僕らも技を持つ職人を強く意識していました。商店街を再生する上で、当初は漠然と若い職人達を誘致しようと考えていたのですが、試験的に空き家改修を進めていくと、職人じゃなくて、サテライトオフィスを設置したいとITベンチャー企業が入ってきたということです。手探り状況だった中で、そういう現象が起こったので、では、サテライトオフィスを誘致して行けば、とりあえず商店街再生に近づけるかもしれないと考え、その方向に走っていったのです。たまたまですね。結果として、サテライトオフィス街のようなものが生まれつつあるというのが実態です。だから未だに、職人さんには未練があります。
佐々木:田中町長、いかがですか?

 田中勝己

田中:技とアートが同じだと考えたことはありませんでしたが、伝統技術を守るのは本当に大切だと思っています。木曽町では、春慶塗、漆器、住宅建設です。日本の住宅、日本の大工さんが、今、もの凄い勢いで減っています。大工さんが高齢化し年寄りが亡くなっていき、若者の中で大工を目指す人がほとんどいなくなっています。宮大工は特殊な技術を持った人ですが、住宅建設の普通の大工さんもいなくなってしまう。日本では、恐らくあと50年もしたら日本の景観はまったく変わってしまい、古い家をもう修理修繕する人がいなくなるのではないかと、危機感を持ちます。私はこの前、金沢に行って、職人大学校を見せてもらいましたが、大工・石工・漆喰などの塗職人、畳職人など、日本の伝統的な職種を支える運動を起こしていかないと、日本の文化が衰退すると思っております。
会場B:私は地元の高等学校を経て、最後は定時制で教師をしておりました。さっき田中町長さんが、八澤春慶の話をされていましたが、八澤春慶の塗職人は、いくらでもいます。一番問題なのは、木地を作る後継者がいないことなのです。今、木地を作る職人は90代。私が担任をしました45歳の木地職人は、ここでは生活できなくて、よそで生活しています。15年後には、彼が八澤春慶のただ一人の職人になるでしょう。木地職人はもう絶滅状態です。私は、日本木地師学会を1983年に設立した一人で、約30年間にわたり、雑誌を延べ約4000ページ編集してきました。編集しながら、後継者をどう作るのか、木地師、木工挽物の職人をどう育てるのかが、研究者である私の宿命だったわけです。具体的に取った対策として、岐阜県、鳥取県、岡山県で木地師を「人間県宝」にしていただきました。それは個人の名誉というよりも、後継者の問題です。
 私どもは、江戸時代以降を中心に木地師研究をしていますが、彼らは山から山を転々と歩いて移動した人たちです。福岡県のみやこ町、四国の半田町、群馬県の上野村にも、木地師の集落があります。彼らは転々としながら、その地域の産業を打ち立てていく。会津漆器、輪島漆器も、すべて木地師が基を作ったのです。
佐々木:私も金沢の伝統工芸を調べている時に同じような思いを持ちました。そこのところが欠けたら、蒔絵づくりとか、加飾だけではできないですね。そういうベースのところを作る人たちに光を当てる、これは「創造都市」「創造農村」の中でも大事なテーマだと意識しています。
 私が金沢大学にいた当時、山出前市長といろんな議論をしてきました。金沢市が、「市民芸術村」を旧繊維工場の倉庫の中に作ります。そこでは、演劇、音楽、絵画、現代アートなんかも扱う。その中に職人大学校があり、行き来ができるのです。「市民芸術村」の中で、伝統工芸の職人もいれば、コンテンポラリーアートをやっている若い人もいて、彼らが自然と交わるような場所を作っていくことがポイントです。その中で自然な動きが発生してくるというようなシステムを皆さん言っておられるんですね。そのシステムをどうやって準備していくかというところが、従来は欠けていたのです。
 ただ単に建物を作って、作りっぱなし。その中を活用したり、あるいは古いものでも、古民家でも、それを上手く活用していくと、そこに隠されていた、あるいは眠っていた価値が再発見される。そのことによって古い技と新しいアイデアが結びつくきっかけが生まれるのです。
 創造都市とか、創造農村というのは、そういう古いもの新しいもの、異質なものが出会う場所を上手に作っていくことだと思います。

伝統と創造

会場C:岐阜県立森林文化アカデミーという専修学校で教員をしています。
 特に創造農村の農山村のことについてお聞きしたいと思います。空間文化や景観という話があります。地形、自然の遷移、あるいは農林業などで人の手が加わってできたものは、けっして名のあるアーティストやデザイナーがした仕事ではない。「用の美」という言い方もありますが、培われてきたものと、今回お話のようにアーティストや商業デザイナーが古民家や商店街を再生した空間は、私の目から見ると、心地の良い美しい景観に見えますが、この二つは果たして一致するものでしょうか?
 あるいは、そういった新しい動きが「用の美」というものを復活させるような起爆剤になるのかどうか、私自身は感じつつも、確信が持てないでいるんです。皆さんにそのあたりのことを、お伺いしたいと思います。
金野:篠山では、今おっしゃたような、暮らしというようなテーマでやっているので、暮らしている人が作っているものに重心を置きます。だからおっしゃっていることは非常によくわかって、私もいろんなことを考えています。
 農村空間の美しさというものは、本当にそれだけでアートなのです。彼らは、名はないけれども素晴らしい能力、技術をきっと持っているわけです。そういうものを伝えているという考え方であって、その中から少し尖がったものが出てくるとか、何かインパクトがあってもいいかと思っています。
田中:非常に難しい話なんですが、木曽町は伝統的な文化や技術、いいものを残して、新しい時代に再生し、活かしていくという考え方できました。まったく新しいものを、アートとして入れるということはやっていませんが、町にはたくさんの移住者がいます。こういう人たちの中には、創造力を持っている人たちがたくさんいます。すべての時代は進化していくわけですから、そうして新しい文化が育っていくのではないでしょうか? そうやって時代や歴史は、作られていくのではないかと思います。
大南:僕自身は、培われてきたものだけに固執するべきでないと思っています。それらに新たな人、例えば、伝統工芸から入ってくる人、現代アートから入ってくる人、演劇から入ってくる人などの力が加わって、面白いものが生まれてくるのではないでしょうか。すべてを統一された価値観のもとに置いてしまうと、新しいものは生み出しにくい気がします。
佐々木:「創造都市」というものを考えた時と、「創造農村」というものを考えた時に、例えば都市景観の美しさは多分に建築家やデザイナーといった人々の意図が非常にはっきりしています。ところが農村の自然景観は、自然の持っている美しさ、自然の持っている創造性、このウエイトが圧倒的に大きいです。

 木曽町の風景

 人間が行う技というのは、小さいものだと思います。そこで、田中町長が言ったように、美しい村を作ると決めたら、まずその景観を保全するところから入ると思うんです。自然景観の美しさを取り戻す。取り戻した先に何か少しでも新しいものを付け加えるかどうかというのが、美しい自然景観と向き合った時に、創造的な活動をする人たちの配合の仕方ではないかと思います。
 例えば今、瀬戸内海では「瀬戸内国際芸術祭」、大都市の名古屋では「あいちトリエンナーレ」をやっています。この「瀬戸内芸術祭」と「あいちトリエンナーレ」を比較すると、僕はそのことを非常に実感します。
 瀬戸内の場合は、ベネッセの会長が、小さい頃から自分が慣れ親しんでいた瀬戸内海の美しさが工業化の中で、どんどん汚されていくのを見て、それを何とか戻したいと思った、それが瀬戸内海の復権です、大きなテーマです。これにはまず瀬戸内海がもってる美しさを、人々が生活レベルで再建することから始めないといけない。
 例えば瀬戸内海に浮かぶ島の一つ、豊島では産業廃棄物の山ができた。そこをアートで再生しようとした時に、「金沢21世紀美術館」の設計者である西沢立衛さんが豊島美術館を作った。島々が見える丘の上に、自己主張するよりも、むしろその中に溶け込むような美術館、そこで自然と対話ができるような美術館を作った。
 彼には、自然の持っている圧倒的な景観美というものが、まず出発点にあった。ところが「あいちトリエンナーレ」の芸術監督に選ばれた五十嵐太郎さんは東北大学で震災を経験し、「揺れる大地」をテーマにした。そこで選んできたメインのアーティストはヤノベケンジさん。彼の作品に、愛知芸術センターの中に「サン・チャイルド」という大きい造形物があります。彼がかつてチェルノブイリを視察した時に、保育園の子どもたちがいなくなって、誰もいない中で拾った人形からインスピレーションを得て、22世紀、23世紀の未来の核戦争の中でも生き延びられるような姿の人形をモチーフにするんですけれど、これには巨大な自然科学の破壊的な力がやってきた時に、人間はどう立ち向かうかという強いメッセージが込められています。それが、愛知芸術センターのど真ん中に立っている。これまでの文明が作ってきた大都市が持っている問題と向き合うアートの力です。
 豊島と名古屋の大きな違いは、自然の圧倒的な造形美の中でアーティストが非常に小さい存在として自覚できたアートと、人間の営為の積み重ねである大都市で出くわすアートとの違いです。そういったものを感じます。だから、創造農村といった場合、農村景観とか農村の美しさ、自然の美しさということを第一に考える。ここを外してしまうと、創造農村の存在の意味がないと思っているくらいです。

アーティストを迎える

会場D:福岡県京都郡みやこ町という非常に小さな町から参りました。「スローラボ」というNPOをやっております。クリエイターとは、アーティストとか特殊な人と考えずに、創造的暮らし手だと自分たちの活動の中で言っているんですけれども、誰もがクリエイターであるという考えのもと、いろんな活動をしています。私の住んでいる町も、やはり過疎高齢化が進んでいますが、地縁、血縁というもので成り立っているこの町を変えていくには、新しい価値観というか、違う縁というか、新しいレイヤーを作っていかなくてはいけないという思いで、私どものNPOに共鳴してくれる人たちとつながりながら、活動しているところです。パネラーの方々の実例を参考にさせていただきながら、良い所を普及させて自分の地域が発展することができればと思っています。
 先ほど入内島さんが、すでに町に移住して来られた方が離れていったことがあったと言われましたが、アートやまちづくりに取り組むために移住して来られた方が離れていく原因と、それに対してどうすれば地域が持続的に発展することができるか伺いたいと思います。
入内島:中之条という小さい町の小さい事例でしかないですが、アーティストは自分たちを待っていてくれる地域に行きたいという気持ちがあると思います。「中之条町にアーティストが移住し始めた」という記事が載り始めると、「私も移住したいですけど、どうすればいいですか?」という電話もありました。ただ本当に移住できるかというと、そうではない。例えば、山重徹夫さんという総合プロデューサーは、電通の仕事をしていますので、東京都と中之条を行ったり来たりしています。中之条に住むことも可能ですが、移住しないアーティストが圧倒的に多いと思います。

  
中之条ビエンナーレ

 アーティストで食べていきたいけれども、30歳くらいまで頑張って、やっぱり食べていけなくて、普通の人になるという人が、日本ではすごく多いと思います。そういう彼らにチャンスをくれる町があれば、行ってみたいと思うんですよね。私はそういう方針でやっていて、アーティスト50人に移住してもらうのを目標にしようと言っていたので、彼らとも話をしたり、直接接するようにしていました。そうすると移住者がだんだん増えて、10人くらいまでいったんです。役場の嘱託職員になってもらったりしていました。
 でも、私が辞めて、新しい人が町長になっているんですが、前任者の方針は、なかなか受け継がれづらいところがあります。しかも、こういうアートみたいなわかりづらいことは、議会も「文化で町が良くなるのか」と平気で言います。「経済は文化のしもべ」とベネッセ会長の福武總一郎さんは言っています。そこをわかってないと、アーティストはすーっと居なくなってしまいますよね。それをわかって、彼らをちゃんと受け入れられるかどうかが地域の力だと思います。
 「若者、よそ者、バカ者」を、私はすごく良い意味で言っているんですけれども、この三つを揃え持つ人はいないです。私なんかは大バカ者と言われたことがありましたが、アーティストは三つとも持っていますから、そういう人たちをいかに町に引き込むかが本当に大事だと思います。
大南:神山は、去る者は追わずの姿勢です。合わなくて去っていく人がいるのは仕方ないし、それが普通なのではないでしょうか。無理して相手に合わせることはしない方がいいと思います。結局、入ってきた人と地域住民の夢や思いが重なり合うかどうかがポイントになると思います。その一方で、常に門戸は大きく開けておくよう心がけています。持ち込まれてくる話は言下に断わらず、思いがあるのならやってみなよと背中を押しつつ、側面的なサポートをします。話を持ち込んできた人たちが主役です。もし彼らが上手くやり遂げたとすれば、グリーンバレーには彼らの新たなネットワークが組み込まれることになり、新しいつながりを生んでいきます。このようにして人が人を呼ぶという連鎖や循環が築かれ、いろんな人達が集まるような場になったのかなと思います。

  移住してきたITワーカー(神山町)

田中:今「手仕事市」を、町のあちこちでやっていて、木曽町には38人の木工作家が来ているんです。技術専門学校が隣町にありますが、そこで学んだ人たちの中には、一流企業で頑張っていたのに突然、考え方を変え、生き方を変えて、専門学校にやって来て、木工技術を学んで、木工作家になった人もいます。「ちっとも売れないもんだから、生活に苦労しているんではないか?」という人たちを支援したいと思って、町の規則を作ったりもしましたが、なかなか難しいですね。町が買い取るということもできませんし、会社を作って、彼らの作品を集めて販売するのはどうかなど、私自身も非常に悩んでいます。
 そういうことを大事にしていかないと、日本の未来は淋しいと思います。皆さんの中で知恵があったら、ぜひ貸していただきたいと思います。
佐々木:今の質問の中でいくつか関係するテーマがあったと思います。一つは中之条のように、入内島さんが在任中に3回やられた「ビエンナーレ」。町長を引退された後、どうやって続けるかという話でしたが、これが順調に展開していければ、アーティストも、まだまだ希望が持てますよね。
 ビエンナーレやトリエンナーレを長くやっている世界の町がどれくらいあるか調べましたが、「ベネチア ビエンナーレ」は100年やっているんです。1世紀です。1世紀やる間に、相当、たくさんの市長が代わっているわけです。でも続けるようなシステムやノウハウがある。この回答の一つは、行政ができることと、NPOや市民セクターができることがそれぞれあって、上手く分担できていることだと思うんですね。
 例えば神山町は、行政は頭が固いかもしれないけれど、NPOのグリーンバレーは先進的です。行政の限界をカバーしているわけです。あるいは篠山のノオトのような一般社団法人と行政がWin−Winであればもっと効果が高いです。創造都市や創造農村ということで、明確な意識を持てやっておられる首長がずっと続けばハッピーだけど、そんなことは必ずしもあるわけではない。世の中紆余曲折があります。
 金沢で十数年も創造都市を推進しているのは、その間、市長が代わられたりするけれど、金沢経済同友会という経済団体が創造都市会議を毎回開催しているからです。
 町村の中で、どういうプランがあって、どういった推進母体を、それぞれの町村のケースに合わせて作り出していくかというのも大事なことでしょう。けっして行政だけで持続可能になるものではないと思います。

空き家の活用

会場E:長野県の木曽地方事務所の者です。移住や空き家について、それぞれ先生方のお話があったので興味深く伺いました。金野先生の資料の中で、「空き家が流動化しない理由」を書いてありますが、「仏壇が残っている」「盆や正月には子どもが帰ってくる」「変な人に貸すと近所に迷惑がかかる」というようなことがあがっていると、これは絶望的だと思ってしまいますが、貸せない理由を創意工夫でクリアしていくヒントをもう少しいただけますか。
 あと、同じ資料の中で、時間不足で説明いただけなかったのですが、「『伝統的建築物を活用する』制度枠組みが必要」ということについて教えてください。
金野:その建物がどう使われるかというのが地域で合意されると、流動が始まると申しました。例えば、「仏壇が残っている」から貸せないとありますが、丸山集落では仏壇が残ったまま、宿泊施設として貸していました。普段は、お客さんが来て泊まるんです。なぜか開かない襖が1枚あって、そこには仏壇がちゃんとあるんです。そこの持ち主は年2回、お盆と正月に帰ってくるだけなので、この2回の優先宿泊権利を持ち主に与えます。そうすると、カビ臭い家ではなくて、草が生えている家じゃなくて、奇麗な宿泊施設に帰って来て、法要をしてそこに泊まって、なんならフレンチを食べて帰れるわけです。創意工夫とはそんなことです。

  丸山集落(篠山市)

 家が片付いてなかったら、行って片付けたらいいんです。「片付いてない」と持ち主に言われたら「僕ら片付けます」と言っておしまい、そんな感じです。
 もう一つの質問は重要なことなんです。日本の国は、古民家など伝統的建築物を文化財として指定して保存するという制度があります。しかし、文化財指定された建物の約1000倍くらい、指定されていないけれど価値のある建築物があります。これを活用するという制度が、日本にはありません。おかしいでしょう? ヨーロッパに行ったら、街角の古い建物にカフェがあったり、B&Bがあって、そこに泊まったりできます。しかし日本ではそういうのを作ってはいけない制度になっているんです。これは改めなくてはいけない。篠山では「国家戦略特区」の取り組みを進めていて、2013年10月にこの制度が動きました。「建築基準法・旅館業法・消防法などの一体的な規制緩和」を内閣府に持ちかけている段階です。

プロセスの作り方

会場F:山梨で教員をしていましたが、今は長野県で農ある暮らしと仕事を求めて移住して、取り組み始めた者です。今日の話を伺って勉強になったのは、その地域について考える時の順序です。往々にしてIターンを増やすとか、人口減少をくい止めるとか、少子化に対応するとか、耕作放棄地を解消するということを目標において、それに向かっていくと考えがちですけれど、そうでなくて、あくまで結果だというようなことを複数の先生方が話されたと思います。
 それが結果であったとして、例えば、景観保全だとすれば何色にするかとか、どう揃えるかとか、草刈りを何回やるかとか、そういうことではなく、生業が成り立ったり、やりがいを持って農業に取り組めるという社会的な環境があって、初めて景観保全がなされると思っています。そうしますと、小さかろうが限界集落と言われようが、そこの条件を活かして、一生懸命やっていくんだという人々の営みがまずあって、それが結果として、政策的にみて成功と言われる時もあれば、政策的に日の目を見ないこともあると思うんです。しかし必要なのは、その手前のプロセスを作ることだというのが皆さんのお話でわかりました。
 例えば大南さんは、「芸術家にとって場の価値を生むような地域をどう作っていくか」と言われましたし、金野さんは、「行き交うということを生む」とおっしゃいましたし、入内島さんは、「空間デザインの運営をアーティストに委ねながら、それを育てていく」とおっしゃいました。表現はそれぞれですが、プロセスをどう作っていくかを教わった気がします。
 しかし、そのプロセス自体は、やはり担い手、その地域に固有のものなので、容易には真似できないように思うんです。そこを承知で伺いますが、そういうプロセスはどうやったら生まれるのでしょうか?
大南:結果的に面白いものができるってことは、本人が「こんなことをやったら楽しい」というところからスタートすると思います。例えば、グーグルの創始者も「なにか面白いからやろう」からスタートして、それをずっと掘り起こしていくうちに、結果として問題が解決していくというものではないでしょうか。最近、「大南さん、これだけサテライトオフィスの数も増え、移住者も入って来ているのだから、もうアーティスト・イン・レジデンスの使命は終わったのではないですか」という質問を受けるようになりました。しかし、もともとアーティスト・イン・レジデンスは何かの使命を与えてやり始めたものではないのです。地域の住民が、面白いからやろう。工場を引っ張ってくるのは無理だけでも、アーティストを呼ぶことは自分達にもできるはず。お接待の文化を生かしながら、作品制作に少しでも関わることができれば、何よりも「面白いよね。楽しいよね」からスタートしているわけです。そうした純粋なものの中から、結果としていろんなことが生まれていきます。

  サテライトオフィスで地域住民と交流(神山町)

 それと、物事というものは、「やってみないとわからない」ものだとつくづく感じています。3年前、神山にサテライトオフィスが立地し始めた時、サテライトオフィスは本社の社員が循環してくるだけなので雇用を生まない、移住も伴わないと言われていました。しかし、現実はどうでしょうか? すでに20人以上の雇用を生んでいます。さらにサテライトオフィス関連で、数世帯の移住者を生み出しているのです。
 最初は、面白いとか楽しいということを「とにかくやってみる」ことです。みんなが楽しそうにしていたら、その場はよそから見ても楽しいわけです。逆にみんなが頭を突き合わせて、「限界集落って辛いよね」と俯いているようなところには、よそから人は入っていきたいと思わないじゃないですか? 仮に辛い状況にあったとしても、真っ直ぐ真剣にやっていれば、「おれも一緒にやってやろう」という人が現れてくるはずです。自らが前向きになって、一歩一歩を着実に進めながら、少しは良くなっているはずだと信じて歩むことだと思います。

伝統芸能の力

会場G:木曽町出身で、サポーターズ倶楽部の会員でもあり、今日は京都から来ました。和太鼓の底辺を広げる仕事をして、人々がハッピーになるために、人間的なコミュニケーションを豊かにすることを仕事としてやっております。
 先ほどの話は、本当に勉強になって、とても素晴らしいと思いますが、全体としてはアートと言いながら、芸能というものまでは意識があまりされてないかなと。
 例えば、第2次世界大戦後に日本中に芝居小屋は1000以上あったのが、今はもう100もあるかないかと言われています。各農村地帯には地歌舞伎、あるいは様々な神楽、芸能があって、祭りを中心として、人々のコミュニティがすごく発達し、その中に豊かな人間関係があった。
 地域の中で、住民が主役となって表現することが祭りという形に象徴的に表れていると思うんですが、そのようなことをもっと意識して、創造農村とか創造都市ということに、私は力を入れていきたいと思っています。
入内島:中之条町は人口1万8000人しかないですけれども、獅子舞と神楽が24あります。子どもも少なくなっているんですが、24の集落で残っているんです。たぶん、この人口規模で、こんなに残っているところは、日本でもないんじゃないかなと、群馬県では、人口対比でみると断トツで多いです。
 そのことに最初に気づかせてくれたのは、アーティストでした。アーティストが入って来て、町のパンフレットを作る時に、トップ面にお祭りや神楽などを貼り付けるわけなんですね。住んでいる人たちはあまり気づかなくて、当たり前だと思ってやっているんですが、遠くから見ると、これがいかに素晴らしいことかを改めて教えてもらった。私もそのことに気づいて数を数えて、あまりに多いのにビックリして、これらを残していこうと再認識するようになりました。

  波々伯部神社の祭礼(写真提供:篠山市)

佐々木:東日本大震災で被災された方々が、再び勇気や希望を持って暮らし続けられるかどうかっていう時に、伝統芸能の力が根源的だということがあちこちで報告されています。私も、神楽の復興のお手伝いをさせてもらったことがあるのですが、実は東北地方に、あれだけたくさんの伝統芸能があるというのは、歴史的に非常に大きな被害が繰り返されて来たからではないかと思います。亡くなった方を弔ったり、自然の猛威を受け止めながら、特に生き残った人たちが本当に、勇気を持って生きられるかという時に、伝統芸能はまさに人々の心を奮い立たせる力があると思うんです。それをアーティストが再発見するということなんだと。

過疎を乗り越える

会場H:信州大学の医学部を出たあと、東京で医者をやっています。お伺いしたいのは、村というと思い浮かぶのが、村八分とか。いい言葉ではないですが、特に何が気になるかというと、医療とか教育のインフラを、今後どうやって考えていくのかということです。
 「村の子どもたちは結局、都会の高校に行かないといけない」とか、年を取ってくると「うちのお婆ちゃんは息子が都会にいるから、都会の方に引っ越すことになった」という話をよく聞きます。創造的なエネルギーを持って、教育、医療などの問題をどのように解決していくのでしょうか。木曽町ではすでに先進的にやられているようなのでお伺いしたい。
田中:木曽町もどんどん過疎が進んでおりまして、合併してから人口が11%減少しました。若者が都会に出ていって帰って来ないということが大きな原因です。私は、「ここで食っていけない」ことが一番大きな原因になって、都会に出て、都会で暮らし、村の年寄りが一人で暮らせなくなると、都会へ呼ぶという形で人口が減っていくと考えてきました。しかし、日本の農村が、どんどん崩壊していくことになれば、日本の国家そのものが持たないのではないかと思います。
 2011年2月、国土交通省の長期展望委員会が、2050年頃までの国土の長期展望について中間報告を発表しました。それを見ると40年後に、山村は61パーセント人口が減り、2割は無居住化すると書いています。無居住地域には色が塗ってあり、都市部を除いて日本中が真っ赤です。北海道、四国、東北地方も真っ赤ですし、木曽も真っ赤です。里地里山地域では約4割が無居住化するということですから、もう大変です。
 私は、そういう日本であっては日本の未来がない、何とかしてここで暮らしていける社会を作っていかないといけないと思って、新しい日本の未来、日本の国づくりために、「創造農村」の地域づくりに取り組むことは、闘いだと思っています。
 頑張っていくうちに国民の意識もだんだん変わり、価値観が変わっていく。価値観が変わらないと農村は生きていけないですよ。儲けた金で、楽しく贅沢して暮らすことが幸せだと考えているうちは、日本の社会は変わらないと思います。価値観が変わり幸せとは何だとか、人間が支え合って生きていく社会でないと農山村は守れないとか、こういうことに気づかないと、きっと木曽も守ることができないのではないかと思っています。
佐々木:医療の問題で言いますと、信州では佐久総合病院が世界的にも農村医療のトップクラスです。そこでは今、病院をコミュニティの中心にして地域交流が展開されている。病気になってから患者として訪れる前に、日常的に生活レベルで予防医学に努めている。そういった実践が各地で始まっている。病院が持つコミュニティ再生機能に着目したいところです。
会場I:2点伺いたいと思います。一つは「創造農村」というコンセプトをどう考えているのかということ。もう一つは今、アベノミクスと調子のいいことを言っていますが、まさに右肩上がりから高齢化・人口減少社会という状況になっている中で、この「創造農村」という概念を我々がどうクリエイトするかというのが今、我々に投げかけられている課題です。それは別の言葉でいうと、農山村の再生という概念だったりします。その時にいつも気になるのは、「生業と営みの場である集落」。皆さんはコミュニティと横文字を使いましたけれども、私は共同体という問題でいいじゃないかと、どこに違いがあるのだろうという気がします。
 ところが、コミュニティ、共同体は極めて怪しく、よそ者が来るのを拒否する場合もある。そういう意味で共同体が持っている両義性、これをどういう風に皆さん考えるのか、このことを考えない限り、「創造農村」は実現しないのではないかという気がしています。

創造農村とは

佐々木:では、質問にあった「創造農村」について、最後に皆さんに一言でまとめてもらいたいと思います。その答えを全部かけ合わせていった時に、グローバル資本主義が荒れ狂う中で、いったい過疎の小さなコミュニティや共同体に、未来があるのかというような疑問に、一つの道筋が与えられるのかもしれないと思っています。
入内島:一言では難しいですが、根底ではどう生きるかという価値観が変わっていかないといけないと思います。グローバリゼーションがすべてという価値観の中では、農村は魅力がないかもしれないけれど、その価値観をちょっと変えた時に農村の持続可能性ではなく、持続価値というものが見えてくると思います。それを生み出すのが「創造農村」の役割ではないでしょうか。
大南:これまで日本の社会において、集落は近親者に託して受け継いでいくのが一般的だったと思います。ところが、地域における世代間の循環が非常に頼りない状態になっている現在、軌道修正が必要になっています。地域が今まで受け継ぎ、自分達が築いてきた価値の伝承を、近親者に固執せずに、(仮に縁がなくても)その橋渡しをしてくれる人達に託すことによって、次世代に残していくという考え方に立てば、少し見え方が変わり、何かすっきりとしたものになるのではないかと思います。
 「創造農村」とは、地域に住んでいる人と、新たに地域に入って来た外からの人達が一緒になってつくる新しい暮らしの形、暮らしの場だという認識を持っています。
金野:「創造農村」が何かということについては、私ども篠山で昨年、第2回の「創造農村ワークショップ」をした時に、同じように悩みました。
 創造性の源泉というのは、「職人の仕事(Opera)に込められた生命の発露」、これは佐々木先生の言葉です。ある土地、環境に働きかけること、職人の技術と魂が、何か新しいものを、その空間に生み続けていくこと、これを創造と解釈しました。そういうものが起きる場所を「創造農村」と捉えています。
 お百姓さんは、百の能力があるという意味ですよね。お百姓さんも「創造農村」を支える人材だし、工芸をやっている人もそうだし、その他、お祭り、芸能とか、そういうのも含めて、創造的なものとして受け止めています。  コミュニティの捉え方は、大南さんと一緒です。両義性というものは閉鎖的なものだと否定せずに、大いなる前提としておいた上で物事を考えます。それが息苦しいんだったら、どうやって空気を抜くか、みんなで考えるのがよいですね。その閉鎖性が駄目だから、なにかふわっとしたネットワーク型で人間関係を作りましょうとは考えないですね。
田中:私は、天と地の理を活かした地域づくり、と言ってきました。地産地消の産業づくりということも言ってきました。そこに住み、地域にあった産業を作り、そして暮らせる社会を作らなければいけないのではないかと思っています。
 それが「創造農村」であり、文化だと思います。文化を狭く捉えるのではなくて、広い意味の文化として捉える必要があるのではないかと考えます。
佐々木:皆さん、非常に含蓄のある話をありがとうございました。創造農村の定義については間もなく刊行される『創造農村ー過疎をクリエイティブに生きる戦略』において、その理論的思想的系譜と背景を述べた上で、次のようにまとめていますので、是非、ご覧いただきたいと思います。

    「創造農村」とは「住民の自治と総意に基づいて、豊かな自然生態系を保全する中で固有の文化を育み、新たな芸術・科学・技術を導入し、職人的ものづくりと農林業の結合による自律的循環的な地域経済を備え、グローバルな環境問題や、あるいはローカルな地域社会の問題に対して、創造的問題解決を行えるような『創造の場』に富んだ農村である。」