RePUBLIC 公共空間のリノベーション


公共の意味を問い直すために


 今、公共空間が本当に「公共」として機能しているだろうか、そもそも公共とは何なのか、公共空間とは何処なのか、この本を通し、それを問い直してみたいと考えた。
 人々を取り囲む環境は、そこで働いたり、たたずんでいる集団のモードに大きな影響を与える。それは時に、プラスにもマイナスにも作用する。公共空間は「公共」という概念を包み込むしっかりとした器になっているか。それは個々人が心地よく、何らかの共同体に向かって自らを開いていける機会を与えているか。
 空間を変えることによって、それに連動するようにマネジメントやルールが変わっていかないだろうか、と考えた。空間や環境の変化は、きっと人々の意識の変化を促すだろう。公共空間の在り方を提示することで、新しい公共の概念を問い直したい。

日本の公共空間は開かれているか?
 日本の公共空間の「公共」は、本来の意味で公に共有されたものになっているだろうか。公共空間を、私たちはパブリックスペースと呼んでいるが、英語のpublic/パブリックと、日本語の公共の意味には大きな隔たりがあると感じていた。
 公共空間の在り方に違和感を感じた小さな出来事がある。それは子どもを連れて近所の小さな公園を訪れたときだった。ベンチはすでに浮浪者に占有され近づけなかった。砂場にはペットが糞をするからとネットが張ってあって遊べない。公の公園なのに、およそ開かれた空間ではなかった。おまけに「ボール遊び禁止」と看板も立っている。サッカーボールを抱えてやってきた僕ら親子は、いったいこの空間で何をやっていいのかわからず、途方に暮れるしかなかった。
 僕らは公園で何をすればよかったのか。それは小さな違和感だったが、いったんその目線を持つと、公共空間のさまざまなことが気になり始める。
 仕事でも同じようなことがあった。2009年、東京に演劇の名作を集めた「フェスティバル/トーキョー」というイベントに参画したときだ。池袋にある東京芸術劇場がメイン会場で、その前の広場に観客や役者たちが集う仮設カフェを設計してほしいという依頼を主催者から受けた。1ヶ月の会期中だけオープンするカフェだ。
 しかし実現にはさまざまな壁が立ちはだかり、公共空間が抱える問題を突きつけられることになった。公共空間を積極的に使おうとする行動が、逆にその不自由さを浮かび上がらせることになった。
 印象的だったのが行政のスタンス。本来ならこの広場をいかにして開かれたカフェにできるかという相談をしたいところだが、管理者の行政担当は、あたかも自分の私有地のように使用制限を矢継ぎ早にぶつけてくる。そのスタンスは、広場がまるで行政の私有地かのようなものだった。広場の管理者である行政は、それを市民に開く義務があるはず。どうやって積極的に、健全にこの空間を使うかを一緒に考える立場でもある。しかし、いつの間にか使用制限をかけることが仕事であるかのごとく、すり替わってしまっている。公共の広場を管理することの意味がズレていることへの違和感は強くなっていった。
 もちろん、行政現場の判断を責めるつもりはない。使用者が善意の人々だけとは限らないし、公平性を担保しなければならないというプレッシャーもあるだろう。しかし、硬直化した公共空間へのスタンスに、長年蓄積されたシステム疲労が象徴されているような気がした。
 このような経験を通し、日本の公共空間と、それを支える公共概念について考え直したいと思うようになった。それを抽象的に問うのではなく、リノベーションを使って改善する方法を提示したい。まったく新しい公共空間をつくり直すのではなく、すでにある公共空間を少しだけリノベーションすることによって、その使い方、さらには概念までを自然に変えていきたい。小さな変化の集積が、結果的に公共という概念を問い直す流れにつながるのではないか。これがこの本の仮説だ。

「公共」と「public/パブリック」の違い
 ここで言葉の定義について確認したい。「公共」を英語に訳すと「public/パブリック」。しかしその両者の間には大きな意味の隔たりがある。
 イギリスのパブリックスクールが端的な例だ。アメリカのパブリックスクールは「公立」という意味だが、先にその概念が存在したイギリスではそうではない。かつてイギリスのパブリックスクールは、貴族階級が自分の子どもたちを学ばせる場を、資金を拠出しあってつくったことに始まる。自分たちの子息だけでは少人数になってしまうので、共同生活を通じて社会性を学ばせるために公に公開することにした。これがパブリックスクールの起源。要するに「私立」なのだ。
 公に開かれた私立、ここに英語の「パブリック」という単語のコンセプトを感じることができる。このパブリックの概念は今の日本の公共の概念とはまるで違っている。
 斉藤純一は、公共をofficial、common、openの三つの意味に分けている(『公共性』岩波書店)。その定義がわかりやすい。
 まず「official」は、主に行政が行うべき活動、管理的な業務。先に示した池袋の広場での公共は、この立場からの目線だった。
 「common」は、参加者が共有する利害が存在すること。たとえば、イギリスにおける共有庭のあり方はそれをよく示している。「コモン」と呼ばれる庭は、そこを取り囲む複数の住人たちが共有して持つ庭である。その空間の所有は個人でありながら、限られた公に開かれている。
 そして「open」は、誰もがアクセスすることを拒まれない空間や情報のこと。IT領域でのオープンリソースやオープンネットワークに、その性質がよく現れている。
 この概念を空間に援用すると、「オフィシャルスペース」「コモンスペース」「オープンスペース」となる。今、私たちはその三つを「パブリックスペース」とまとめて呼んでいる。しかしそれらは性質も管理者も違うものだ。
 僕が先に感じた違和感は、「オープンスペース」が「オフィシャルスペース」のように扱われていたことが原因だったのがわかる。
 私たちが「公共」と表現している概念は、これらが混在し曖昧になっている。それらの差異を意識し、使い分けることで求める公共空間が見えてくる。
 公共は行政が管理下に置くべきものでもなく、「公」と「個」は明確に分かれ二元論で語られるべきでもない。その関係性の結び方によって、適度な秩序を持ったいきいきと使われる空間が生まれるはずだ。
 実は「オフィシャル」と「オープン」の中間、「コモン」の概念にこれからの公共空間を解く鍵があることが見えてくる。私たちは今後、この時代にふさわしい多種多様な「コモンスペース」を発明しなければならないのではないか。もしくは失われてしまったその空間を取り戻さなくてはならないのではないか。

その空間は誰のものなのか、ではなく、誰のためにあるのか
 都市空間は見えない線によって、細かく所有や管轄が決まっている。その存在感は強大で、それを巡って数センチ単位で紛争が起こったりもする。土地本位制が根強い日本において、その空間が誰のものなのかは圧倒的な強度で語られる。しかし逆に、その空間が誰のためにあるのか、という概念が極めて希薄になっているのが日本だ。この本を通じて問い続けているポイントは、そこだ。
 たとえば公園。そこは都市公園法によってやってはいけないことだらけだ。管理者によってその使用制限がどんどん増えていく現象は前述の通り。そこには不公平な公平を維持する障害が横たわっている。
 ここで発想を転換し、「この空間は誰のものなのか。誰が管理しているのか」という、今までの所有からの見方ではなく、「この空間は誰のためにあるのか」という視点から眺めてみる。そこから新しい発想や動きが始まるのではないだろうか。

私有と共有が曖昧な、冗長的な空間
 近代の細分化プロセスのなかで、私有と共有の境界に線が引かれ、その境界がはっきりし過ぎたのではないか。確かに社会が複雑化し、利害が絡めば、その境界は厳格化しなければ混乱を招くことになる。しかし同時にこれは、コミュニケーションの冗長性を消していくことになった。
 かつて曖昧な空間が存在した。庭先、店先、縁側…、これらの単語が示すように、私有の「先」っぽの空間は、街や道路、公共の空間に開かれていて、そこは誰のための空間なのかが曖昧だった。その空間が社会の冗長性を担保していたような気がする。ここから先は私有地だが、パブリックに開かれ、他者が入ってくることを許容する、時には歓迎するような空間。そのいい加減な空地が弾力的なコミュニケーションを生んでいた。幅があったその帯域は、今は線に集約され、やがて消えていってしまった。
 かつて空き地でよく遊んでいた。「ドラえもん」でも、子どもたちの遊び場は空き地と決まっていて、そこにはなぜか大きな土管が置いてあって、それが自由の記号だった。おそらくその空き地は誰かが私有していたはずだが、そこは適当に放置され、僕らはそこで勝手に遊んでいた。そこは公共空間のような私有地だった。今そんな空き地は存在しないし、勝手に空き地に入り込んで遊んでいたら叱られるだろう。あらゆる空き地にはバリケードが巡らされ、「許可なき者の立入りを禁ず」と、ばしっと書かれている。
 今考えるとこの空き地は、半私有・半公共の場で、社会の積極的なスキマだった。僕らにとって、そこは管理者が曖昧なアジールだった。それに代わる空間が、整備された公園ということになるのだろうが、そこは管理者である行政がボール遊びや芝生に立ち入ることをしばしば禁止している。一部からのクレームがあるから禁止事項が増え、身動きがとれない公園になっている。では今の子どもたちは何をすればいいのか? 滑り台の下で静かにモバゲーをするだけなのか?
 僕らのようなサイレント・マジョリティは無視され、少数の大きな声がルールをつくるという矛盾にぶつかってしまう。曖昧な空間を生成することは確かに難しい。

土地本位制の崩壊と貨幣以外の交換価値
 土地本位制度のもと、日本の土地、すなわち空間は貨幣に置き換えやすいものだった。その概念は強固だが、最近は少しその価値が揺らいでいるように思えることがある。とくに地方都市では人口が減り、土地も時間も余っているから、土地がいつしか貨幣価値を持たなくなっている。路線価などの値段はついているのだが、取引はまったくない。それはすでに貨幣価値を失っているのと同じことだ。
 そのような土地を所有者はどうするのだろうか? ただ放置するのか、公に開放するのか…。後者の方がまだ生産的だ。実際、ガラガラに空いてしまったデパートのフロアを公園のように開放するなど、もはや民間の管理する公共空間に近いものになっている風景を見たことがある。今後、私有地の公共化がさらに進んでいくだろう。この場合、その空間は誰のものなのだろうか。
 しかし、変化の風を感じることが多くなった。震災などの大きな出来事もあり、日本人は穏やかに、優しくなっているような気がする。強かった所有、私有への欲求も今の若い世代は薄い。土地やモノを所有していることが自分の幸せとダイレクトには結びつかなくなっている。シェアの概念が意識され、彼らは貨幣以外の交換価値を積極的に楽しみ始めている。この感覚が公共空間に援用されるようになれば、変わっていくだろう。 時代は今、新しいデザインやアイデア、ルールやマネジメントによる空間を求めている。それはいかにしてつくることが可能なのか。ヒントや手掛かりを探すのがこの本の目的だ。

今が、変化の時
 公共空間をドラスティックに変えるタイミングだと思う。人口減小と税収の落ち込みによって、行政は新しい投資をしにくい状況にあるからだ。その苦境は合理化や工夫を生み出す。ハコモノ行政が問題視され、ハードへの公共投資の壁は高くなった。新築が困難な場合はリノベーションを選択することになる。
 役所は建設ラッシュから40年余りが経った。構造補強や老朽化による補修が必要な時期を一気に迎えている。地方都市でそれらを新築する体力があるのは限られた豊かな街だけで、人口減少も進んでいるので施設を拡大する必要性も薄い。だとするならば、ただ構造補強して壁の色を塗り直すだけではなく、現在の行政の在り方に適した空間へと再編する機会でもある。役所だけではなく、図書館、学校なども同じような状況にある。廃校のリノベーションや図書館の運営の見直しは一部ですでに行われ始めた。
 同時に、公共空間の使い方や運営の幅を広げる規制緩和が進んでいる。この本のなかに出てくる「アーツ千代田3331」や「武雄市図書館」などはその代表だろう。行政は自らが施設を運営することが重荷になり、それを外部化することの有効性に気づいている。それはうまくいけば、経費の削減と空間の活性化の両方を促すことになるからだ。
 しかし、公共財の運営を民間事業者に委ねていいのか? 公平性とは何か?という問いと常に向きあい続けなければならない。そこに行政の立場の難しさがある。これらの問いは、使う側の幸せを優先して考えるならば、おのずと答えは導けるはずだ。
 この本で僕は、一貫して公共空間の改革開放路線を提案している。空間は管理する側の論理ではなく、使う側の論理でつくられなければならないと思っているからだ。そのためには、空間の主体を管理者から使用者へと移行しなければならない。
 社会学者のアンリ・ルフェーブルはその著書『空間の生産』(青木書店)のなかで、管理する側の論理でつくられた空間のことを「抽象空間」と呼び、それが利用者の自由やいきいきとした空間の使われ方を阻害していると批判した。逆に利用する側の論理によってつくられた空間を「生きられた空間」と呼んだ。そこでは利用者ならではの知恵や工夫が積み重ねられ、変化しながら最適化し、空間が活力を保ちながら維持されていることが多いからだ。
 この本は「使う側の論理」で空間の在り方を再認識した事例やアイデアを数多く紹介した。ささやかなものが多いが、その個別解の集積が状況を変えていく。

RePUBLIC
 リ・パブリック。日本語に訳すと「共和国」。違う意味の単語になっていることに気がつく。その語源は「公共のもの」を意味するラテン語「res publica」。共和国とは国家自体を国民が共有する、というコンセプトでつくられた体制だった。それと対になっているのが、君主が存在する王国、君主国。
 もちろん、すべての共和国が現在、そうなっているわけではないし、共和国という名の独裁国家もある。それは建国当初のコンセプトが何かの拍子にズレてしまった結果だ。
 国家が公共財という考え方、それは当たり前だが、果たしてその感覚を私たちはグリップできているだろうか。その感覚こそが、公共空間を自分たちのものだと実感できることにつながっているのではないか。
 公共/publicについて空間を通して問い直す、この本をつくることをそのきっかけとしたい。

馬場正尊