東日本大震災 復興まちづくり最前線


はじめに


 東日本大震災から2周年になるのを前に、復興の現状と課題を示し、さらに震災の教訓を今後の国土や都市のあり方に活かそうという趣旨でつくられた本書が上梓されるのを、編者の一人として嬉しく思う。本書は、復興の最前線に立つ被災自治体の首長、復興推進に現場で関わってきた行動的研究者や専門家に書いていただいた。そして、復興が遅れているという焦燥感を共有しつつも、二度と同じような災害に遭わないための復興の計画と事業には時間が必要なことも実感し、そのうえで、いかにして復興を加速化してくのか、並行して進む人口減少社会にも対応した復興としていくのかを何よりも重視することを共通の基礎としている。もとより、震災のダメージは簡単に癒えるものではないが、時間をかけて癒していくことのできる基盤をできるだけ早く構築しなければ希望が失われる。本書が世に出る震災から2年後というのは、災害復興行政では災害復興の都市計画を策定する期限とされている。だからこそ、合意形成に基づく事業計画づくりが急がれるのである。
 本書は、また、東大まちづくり大学院シリーズの4冊目に当たる。東大まちづくり大学院(社会人修士課程)でも、講義や演習を通じて震災復興を取り上げてきた。本書が加わったことで、より確実に震災復興の活動と研究が継承されていくことを期待したい。
 さて、少し私的な話題に及ぶことを許していただき、東大での教員生活を終える直前に本書の作成に参加することができた筆者の東日本大震災との関わりについて触れたい。
 東日本大震災が起きた時、筆者は所属する専攻・学科の責任者を務めており、構成員の安否確認、原発事故の注意喚起に当たった。これらに目途がつき、被災地に初めて入れたのは、4月2日(土)であった。花巻空港から釜石に向かい、本書にも寄稿いただいた野田武則市長にお目にかかった。以降、毎週のように被災各地を訪れることになった。一方で、新聞や雑誌に震災復興の提言を書くように依頼されたり、政府の東日本大震災復興構想会議委員に委嘱されたりし、震災復興に深く関わることになった。また、被災地では、釜石市と気仙沼市で、復興計画の策定を手伝うことになり、復興構想会議における提言策定に被災地の声を反映させる役割を果たそうと考えた。
 こうした提言や復興計画はおおむね2011年9月までに取りまとめられ、一区切りと思っていたところ、10月に行われた日本学術会議の総会で思いがけずに会長に選出され、学術会議の立場で復興支援に関わることになった。学術会議では、震災以降の活発な活動を発展させ、震災1周年に合わせて、まちづくり、産業・雇用、放射能対策、さらに放射性物質を含む恐れのある災害廃棄物の処分に関する提言をまとめることができた。現在は、さらに原発事故に関連した再生可能エネルギーの供給促進、福島の復興、原子力利用の将来像、さらに災害体験の教訓化へとテーマを広げて活動している。一方で、昨年は、南海トラフでの巨大地震が起こす津波から広範囲に及ぶ沿岸地域をいかに守るのかをテーマとした提言を仲間とともにまとめ、防災担当大臣に届けた。
 これらの活動を通じて、当然かもしれないが、被災地はもちろん、大学や学術会議、そして政府の会議で知り合いになった政治家や公務員を含む方々が、みな大震災に大きな衝撃を受け、復興や大災害来襲への対処に真剣に取り組んでいることを感じ、心強かった。自然災害と縁を切れない国土に生きる人間として、災害への備えを怠らないことを肝に銘じなければならない。また昨年末から、国連の国際防災戦略(UNISDR:International Strategy for Disaster Reduction)の顧問を務めることになった。東日本大震災をはじめとする日本の経験を世界の減災に活かすことが役割と考えている。
 執筆者を代表して緒言を記すところが、個人的な記述が長くなり過ぎた。筆者は、この災害の教訓は減災という概念を定着させることだと考えている。災害につながる自然現象にあらかじめ枠をはめることはできないから、どんな規模の災害が来ても人命が失われないことを第一に考えることが重要である。しかし、被災地には、波打ち際ともいえる場所に学校や病院が建っていて被害を免れなかったり、危険に曝されたりしたケースが少なくなかった。筆者が関わってきたまちづくりは、一度つくればそう簡単には動かせないまちそのものを対象とする。だからこそ、計画段階で、いかに減災性、安全性を織り込むかに計画者の知恵とこだわりが問われていると思う。本書がそのために役立つことを著者一同願っている。

2013年1月
大西隆