神戸の震災復興事業
2段階都市計画とまちづくり提案

あとがき


 私は1975年4月に神戸市役所に採用され、2010年3月に退職した。この間の35年間、都市計画(24年)、埼玉大学大学院(国内留学)(2年)、土木(3年)、区役所(3年)、港湾(3年)の関連部局で務めてきた。それぞれの業務の内容は都市計画・区画整理およびまちづくりに関するものであった。しかも、最後の16年間は、阪神・淡路大震災の復興の業務に関わってきたので、役所生活の半分が震災関連である。
 本書はその意味で私自身が、この16年間に経験してきたことが基盤となっている。本書をまとめるにあたり、その中でも次の3つの期間が重要と考える。その点について若干触れておきたい。
 まずは、1994年から3年間の兵庫区役所まちづくり推進課長の時期である。1995年1月17日に阪神・淡路大震災に遭遇し、混乱する被災地の最前線で復旧・復興事業の現場を経験した。その際、大火を被った松本地区の行政主導型復興事業と湊川町1・2丁目地区の住民主体型事業の事業創設期において、被災した住民の方々の苦悶と苦闘の姿を直接自分の目で見、様々な相談に乗らせていただいた。1997年の異動後も、松本地区の中島克元会長や湊川地区の篠原正吉会長とは昵懇にしていただくとともに、事業手法の異なる2地区に準備段階から完成まで直接的あるいは間接的に関わらせていただいた。このことは、その後に私自身が震災復興事業の実務に携わる上での大きな財産になった。また、兵庫区内では震災前から都市改造型の土地区画整理事業が進行中で、上沢地区や浜山地区の事業の進め方を身近に知ることができた。このように区役所では、震災復興事業だけではなく、幅広く震災関連事業の進め方を、住民を支援する立場から、また施行者ではない被災者の立場からも理解する貴重な経験を得ることととなった。
 第2は、1997年から4年間の都市計画局計画部まちづくり支援担当主幹の時期である。そこでは、震災復興事業の担い手であった「まちづくり協議会」の活動支援や専門家派遣の業務を担当した。さらに、神戸市まちづくり条例の所管課担当として、条例の役割と意義、震災前からの住民主体のまちづくりの実態、震災復興事業地区の協議会活動との関係を理解することができた。特に協議会組織のリーダーの方々とは、「神戸市まちづくり協議会連絡会」の会議の席上や、連絡会が企画したシンポジウムのパネラー、時には裏方として、真剣に議論することができた。中でも、事務局長として八面六臂の活躍された松本地区の中島会長をはじめ、森南第1地区の奥井明会長、六甲道駅北地区の(故)藪田一彦会長、六甲道駅西地区の若林俊夫会長と池田寔彦副会長(現会長)、鷹取東第1地区の(故)小林伊三郎会長からは、住民と行政の葛藤の現実と厳しさや、協議会運営の難しさを実直に伺うことができた。まさに、震災復興事業を規定した要因を知る上で他では得られない経験を得ることとなった。
 第3は、2005年から退職までの5年間で、都市計画総局の土地区画整理部長、市街地整備部長、参与(市街地整備担当)を歴任し、主に震災復興の土地区画整理事業と再開発事業の推進を担当した時期である。震災から10年を経過し、事業としては完成前の局面で、超えなければならない様々な課題に直面した。それには、協議会の方々の協力や、担当職員の努力によって、課題の解決方策を見つけ出して対応することが求められた。その結果、創造的復興を象徴する都市施設や景観形成、そして住民が主体となってまとめたまちづくりの総仕上げなどにも関わることができた。鷹取東第2地区の千歳地区連合協議会(6協議会)の鍋山嘉次会長、新長田駅北地区の東部まちづくり協議会連合会(12協議会)の野村勝(前)会長や、小山象平(現)会長からは、大規模な事業地区で事業化から完成に至る苦渋の選択の経緯や、単位協議会をまとめた連合協議会の運営での創意工夫や局面打開の方策の苦労話を様々な機会でお会いするごとにじっくりと聞かせていただいた。
 懇意にしていただいた各会長からの苦労話の中で印象深かったことは、震災発生から完成に至るまで一番変わったのは自分自身であるという味わい深い感想であった。一個人の主張を貫くこともできたが、それでは組織をまとめていけない。組織を分裂させないために、自分の性格や考えをある時には捨てて、自分を変えてでも事業を進める道を選んだとのことであった。こうしたリ−ダーの存在があってこそ、住民主体型の事業が進められたことを痛感することができた。
 以上の3つの期間は、第1の期間が震災復興事業の計画と始動の時期であり、第2の期間がまちづくり提案に基づく事業の最盛期であり、第3の期間は事業の完成期である。まさに、私自身が関わったそれぞれの仕事は性格的にもまったく違うものであるが、それぞれの仕事に事業の流れや進捗を実感しながら一定期間じっくり関わらせていただいたのは幸運であったと思う。
 本書では、復興という行政課題の遂行と住民参加を実現する「2段階都市計画」というこれまでに経験のない手法をどのようにして進めたかについて、行政という立場に立って、その解釈や運用を中心に述べてきた。その復興の現場において被災住民の声を代表したのが「まちづくり協議会」であり、ほとんど白紙の状態から試行錯誤しながら運営し、時には苦渋の選択を決断しなければならなかった会長をはじめとするリーダー達の苦闘の活動があってこそ復興が実現できたという面があるのも事実である。それらの個々の活動については、本書では詳細に触れていない。それは、紙面の都合もあるが、すでに事業が終了した際に各地区の記録誌が発刊され、そこで詳しく述べられているため、本書ではそのエッセンスを述べるにとどめ、行間にそれらを含めたつもりである。本書をまとめることができたのも、それぞれの地区の協議会の会長をはじめとするリーダーの方々と本音で語り合えたことにより現場の実態を私なりに理解・把握することができたからではないかと考える。あらためてこの場を借りてお礼を申し上げます。
 未曾有の阪神・淡路大震災の被災から立ち上がり、創造的な復興という大きな目標に向かって、多くのアクターが主体的に復興事業に取り組んできた。行政と被災者住民は、当初は意見対立の関係から始まったが、まちづくり協議会という共通の土俵を持つことで話し合いが進められ、政策実施の中で信頼関係が作り出されることによって、創造的な復興が成し遂げられたといえよう。
 そして、本書をまとめるにあたり、伊賀俊昭氏(震災発生時に神戸市都市計画局計画部計画課長であり、最終的には都市計画局長を歴任)には、復興都市計画の政策過程に関するインタビューの際に多くの時間を割いていただき、惜しみなくご教示いただいた。
 さらに、阪神・淡路大震災の経験を伝承するために、神戸市の職員と退職者で構成する「神戸防災技術者の会」(略称:KTEC)と、神戸学院大学防災社会貢献ユニットの授業を担当する大学・研究機関・行政・マスコミ・NPOなどの多彩なメンバーからなる「防災・社会貢献システム研究会」では、多様な分野にわたる地域や社会との関わり方について学ぶ機会を与えていただいた。加えて、神戸市都市計画総局市街地整備課の多田直人氏、同東灘区役所まちづくり課の森下武治氏には本書の表や図面の作成など熱心に協力いただいた。これらの関係の方々のご好意にお礼申し上げます。
 本書の出版にあたって、関東大震災の復興過程を研究された元東京都立大学教授の福岡峻治氏には、本書の準備過程で草稿を丁寧に読んでいただき、貴重な示唆を与えていただきました。また、KTECからは出版助成をしていただきました。あらためてここに、心から感謝の意を表します。そして、学芸出版社にあって、本書刊行の機会を与えていただいた前田裕資氏および編集を担当いただいた森國洋行氏には大変お世話をいただきました。ここに深謝いたします。
 最後に、本書執筆中の2011年3月11日に「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震、M=9.0)」が発生しました。これまでの経験を遙かに超える津波の破壊力で、東北地方だけではなく北関東にまたがる数百kmにわたる地域に未曾有の被害をもたらしました。犠牲者になられた方々のご冥福をお祈りし、被災者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。そして、できうる限り早期に復興への道筋が開かれることを祈念いたします。その際に、阪神・淡路大震災の復興への過程をまとめた本書が何らかの形で貢献できるならば、まことに幸いと考えます。

2011年7月
中山久憲