コミュニティデザイン
人がつながるしくみをつくる

 「コミュニティデザイン」とは聞き慣れない言葉かもしれない。新しい言葉を生み出したような響きがあるかもしれない。ところが、この言葉はすでに1960年ごろから使われていた。ただし、その意味は現在のものと少し違っていた。
 50年前の日本で使われ始めた「コミュニティデザイン」は、主にニュータウン建設の過程でよく登場した。ニュータウンには、互いに結びつきのない人々が全国から集まってくる。こうした人たちが集まって暮らすなかで、良質なつながりを生み出すためにはどんな住宅の配置にすればいいのか、みんなで使う広場や集会所をどうつくればいいのか、ということを考えたのがかつてのコミュニティデザインである。このころ、コミュニティ広場やコミュニティセンターという言葉が盛んに使われた。みんなが共同して使う場所があれば、きっと自然に人々のつながりができるだろうという発想である。だから、当時のコミュニティデザインは住宅地を計画することを意味した。ある地区を設定して、その物理的な空間をデザインすることがコミュニティデザインだったのである。
 一方、本書で取り扱うコミュニティデザインは住宅の配置計画ではない。50年の間に多くの住宅地がつくられた。計画的な住宅地もあるし、無計画な住宅地もある。一方では、昔ながらの中心市街地もあるし、中山間離島地域の集落もある。このいずれもが良質な人のつながりを失いつつある。100万人以上いるといわれる鬱病患者。年間3万人の自殺者。同じく3万人の孤独死者。地域活動への参加方法が分からない定年退職者の急増。自宅と職場、自宅と学校以外はネット上にしか知り合いがいない若者。その大半は一度も会ったことのない知り合いだ。この50年間にこの国の無縁社会化はどんどん進んでいる。これはもう、住宅の配置計画で解決できる状態ではない。住宅や公園の物理的なデザインを刷新すれば済むという類の問題ではなくなっている。僕の興味が建築やランドスケープのデザインからコミュニティ、つまり人のつながりのデザインへと移っていったのは、こんな問題意識があったからだ。
 もちろん、ある日突然こうした問題意識に目覚めたわけではない。建築やランドスケープのデザインに携わりながら、「それだけでは解決できない何か」が少しずつ見えてきて、それが僕の中で無視できない大きさにまで膨らんできたのである。その結果、僕は設計事務所を辞めて独立した立場で仕事をするようになった。
 だから僕はこの本を同じようなことを感じているデザイナーに読んでもらいたいと思っている。建築や公園を設計するだけでは解決できない課題(でも解決すべきだと感じる課題)を見つけてしまった人。「デザインにできることは売れる商品をつくること以外にもあるんじゃないか」という想いに蓋ができなくなっている人。デザイナーだけではない。行政や専門家だけが社会的な課題を解決しようとしても限界があることを実感している人。自分たちが生活するまちに貢献したいと思っているけど何から始めればいいのか分からない人。こういう人たちに本書を読んでいただき、人がつながるしくみをつくることの大切さを感じ取ってもらえれば幸いである。
 都市計画やまちづくりの専門家の間では、コミュニティデザインという言葉が50年前の響きを持っているかもしれない。英語では、新しい意味でのコミュニティデザインのことを「コミュニティディベロップメント」あるいは「コミュニティエンパワーメント」と呼ぶらしい。確かに意味としては正しそうだが、いずれも日本語だと舌をかみそうな名称だ。「コミュニティデザイン」のほうがすっきりしているし、意味が通らぬわけでもない。重要なのは、かつてのコミュニティデザインが持つ印象を刷新するくらい実効性の高いプロジェクトをどんどん生み出し、コミュニティデザインという言葉の意味を自ら育てることだろう。
 ランドスケープデザイン、コミュニティデザイン、ソーシャルデザイン。本書に登場するデザインはいずれもその守備範囲が広い。とてもひとりでデザインできる対象ではない。例えばランドスケープ、つまり風景は誰かひとりの手によってデザインされるものではない。コミュニティにしてもそうだ。いわんや社会をやである。
 だからこそ、それらについて語ろうとする本書には、著者のほかにさまざまな人物が登場する。人名や注釈が多い点については、著者の作文能力不足が最大の理由だが、一方でそれがコミュニティデザインを語る上での特徴だとご理解いただければ幸いである。
 前置きはこの辺にして、さっそく本文を読んでいただきたい。