創造都市・横浜の戦略

クリエイティブシティへの挑戦

独白、おわりにに代えて

  私は、団塊の世代に遅れること2年、1951年に生まれた。大学時代は学園紛争の残り香がただよう、なんとなく白けたキャンパスで「漫然」と過ごした。卒業後の進路として民間企業への就職は考えなかった。当時は、企業へ就職することは資本主義の先兵となることであり、せめて公務員か教員になるのが「良心的」だといった雰囲気が支配的であったからである。第1章で述べたように、私は当時の飛鳥田市長の横浜市にあこがれて入庁したわけだが、実は、入庁時にそれほど高いモチベーションを持っていたわけではなかった。当時「でもしか先生」という言葉があった。「教員にでもなるか」「教員にしかなれない」という意味で使われていた。その意味で言えば私は「でもしか公務員」として横浜市職員となった。
  しかし、文化事業課で文化事業を企画するようになり、俄然エンジンがかかり始めた。仕事が面白くなったのだ。そのころは毎朝職場に行くのが楽しみだった。若かったこともある、上司に恵まれたこともある。今ふり返ると、あの時代の経験が現在の自分のコアを形成したのだと思う。がむしゃらに働いたし、むちゃもした。
  「むちゃ」には説明が必要だ。文化の仕事は、アーティスト、プロデューサー、企業、メディア、海外諸機関など市役所外の人たちとの協力関係がうまく構築できるかどうかが仕事の成否を決定する重要な要素である。私は、当時ヒラ職員の分際で市役所の枠を越えてこれらの人たちと直接仕事をした。もちろん、そのような仕事のやり方は行政になじむものではない。上司からは、しょっちゅうしかられた。私は自分を「はみだし公務員」であると規定してきた。
  ウォルフレンが言うようにわが国は官僚が仕切っている(『日本権力構造の謎』早川書房、1994年)。しかし、官僚は少数派である。100人の市民に対し、1人の市職員がいるというのが普通の比率である。100人の市民のうち、たった1人が市職員ということは、市職員は地域社会においては少数派であるということを意味する。私は99人の市民の側で仕事をしようと考えた。理不尽なことで上司にしかられても気にしないようにした。1/100の市職員がしかっているのだから、と自分を慰めてきた。もちろん市役所の中で出世しようとは考えていなかった。
  私は飛鳥田市長の横浜市で仕事がしたいので横浜市に入ったが、飛鳥田は私の入庁と入れ違いで、市長を辞任した。その後24年間にわたり中央省庁の天下り官僚が市長を務め、飛鳥田時代の横浜市の輝きは失われた。
  しかし、2002年に中田宏が市長となり、これまで述べてきたような市政の変革が急ピッチで進んだ。創造都市政策は、そのなかから生まれた。私は、ある意味で中田市政は飛鳥田市政の再来であると考えている。アンチ官僚主義、市民参画、情報公開など両者に共通する部分は多い。もちろん、旧社会党の飛鳥田とニューパブリックマネジメントを推進する中田はイデオロギー面では正反対である。しかし、市民生活の向上が目的の地方行政のなかでイデオロギーは大きな要素ではない。飛鳥田により横浜市役所という畑に植え付けられた「改革の遺伝子」は、24年間の「冬眠」を経て、中田により息を吹き返した、と思いたい。これが筆者の本書執筆の動機である。つまり、「クリエイティブシティ・ヨコハマ」は、飛鳥田が市長に就任した1960年代から始まっていたのだ。
  本書の出版については、多くの方々の力添えがなくては実現できなかった。飛鳥田元市長のブレーン、田村明氏、鳴海正泰氏、皆川達也氏には原稿校正でお世話になった。開港150周年・創造都市事業本部をはじめ横浜市の各部署のスタッフのみなさん、BankART 1929の池田修さんには忙しいなか、情報提供、原稿チェックなどの協力をいただいた。創造都市論のわが国におけるパイオニアであり、横浜市にもアドバイスをいただいている佐々木雅幸氏には理論構築の面で貴重なアドバイスをいただき、感謝している。チャールズ・ランドリー氏からは有益な様々なアイデアをいただいた。学芸出版社の前田裕資氏には、本書の構成、表現、など多くの指摘をいただいた。最後に読者の視点から原稿チェックをし、改善点を指摘してくれた妻美樹子に感謝する。

 2008年7月17日
          野田邦弘