衰退を克服した アメリカ中小都市のまちづくり


あとがき

 アメリカの優れた都市政策を実施した都市を紹介したいと以前から考えていた。1990年代前半、いくつかのアメリカの都市ではダウンゾーニングや成長管理政策などを展開しており、それら当時の新しい都市政策手法を勉強するために、アメリカの大学に留学したことがあるからだ。しかし、その後帰国すると、どうも我が国においては、そのようなアメリカの都市政策に対しての期待などはあまり持たれていないような印象を受けた。何より、私自身がアメリカの都市と日本の都市とでは、環境が違い過ぎて、いたずらに参考にしない方がいいのかもしれないと考えるに至ってしまった。

 しかし、それから数年経ち、我が国の都市をとりまく環境にいくつかの変化が起きるようになった。一つの契機は大店法の廃止である。この法律を廃止する以前から既に多くの都市の郊外部には大規模ショッピングセンターが立地していたが、この法律の撤廃によって、状況はさらに悪化した。そして、消費社会研究家である三浦展が「ファスト風土」と呼ぶような画一的な郊外景観が地方都市に広がるようになった。たまに地方都市を訪れても、地域性がうかがえない風土から遊離してしまったようなロードサイドの景観、駅前の景観をみるにつけ、私がアメリカで留学中に勉強したようなアメリカの都市問題がまさに我が国でも起きつつあることを目の当たりにして大いなるショックを覚えた。

 それならば、多少の紆余曲折を経ながらも、このような問題を克服したアメリカの都市の事例を紹介することは、我が国の都市問題の解決方法を模索している人達の参考になるのではないかと考えた。そして、その中でも人口20万弱のいわゆる中小都市で、そのような問題を解決できた都市の事例を取り上げた。というのは、どうも人口20万人以下の都市は、中央政府もあまり力を入れてなく、放っておかれているような印象を個人的に受けるからである。実際、国土交通省の中心市街地再生会議でも、人口20万人の都市の分析は省略されている*1。人口が相対的に少ない中小都市は、あたかも大きなマクロ環境の変化の中で、負け犬のように位置づけられているのではないだろうか。アンケート結果からも、実際の住民も、そのような意識を抱いているかのような傾向がうかがえる(例えば、第6章図3)。

 アメリカでは人口10万前後の中小都市の方がむしろ元気である。デンバーよりボルダー、サクラメントよりデービス、アトランタやナッシュビルよりチャタヌーガ、ワシントンDCよりチャールストン、ボストンよりバーリントン、といった選択をする人や企業は決して少なくない。これらの中小都市は大都市では決して実現できないクオリティ・オブ・ライフを相対的に安価で提供してくれるからである。

 今回、事例で挙げた5つの都市を選択するうえでの条件は、人口が3万〜15万までの中小都市であること、新たな価値を創出させる都市政策に成功していること、そして私自身が以前訪れた時に強い感銘を受けたところ、というものであった。もちろん、読者が興味を持ってもらえそうなストーリー性がある場所ということも選ぶうえでの重要なクライテリアであった。

 ページの関係や締切の関係、そして何よりも私の生産性の悪さから、紹介したくてもできなかった魅力溢れる中小都市がいくつかある。オレゴン州のアッシュランド、マサチューセッツ州のローウェル、カリフォルニア州のサンタクルーズやカーメル、アトランタ州のサバンナなどである。これらは、本書が広く人々に受け入れられたら、続編として執筆できればと図々しくも考えている。

 事例を研究しても、それは直接的な処方箋には結びつかない。しかし、問題の解決法を考えるうえで新しい視座、新しいアプローチを見出すきっかけを提供してくれる。袋小路に陥ってしまった状況を打破する視点を与えてくれる。本書が、様々な課題に直面している我が国の中小都市の将来への視界を広げ、多少なりとも将来の道筋を照らす光として資することを願う。

 それにしても、この本をまとめるにあたって、いかに自分が知っていると思っていたことに関して、知識が不足しているかに気づかされた。ここで本としてまとめた後も、まだまだ理解が不足している点があるかもしれないという不安は拭えない。すべての文章、数字等の責任は筆者にあることはもちろんであるが、もし何かお気づきの点等があれば、是非ともご教示いただければ幸いである。

 本書はカール・ワージントンの取材記事を除けば、すべて書き下ろしであるが、5つのうち4つの事例は、以前雑誌等でその政策の概要を公表したことがある。チャタヌーガとバーリントンは、『トップ・マネージメント・サービス』(三菱総合研究所)という雑誌に記事を掲載した(1998年5月号、1998年11月号)。当時の編集担当の久保裕氏には大変、お世話になった。チャタヌーガはまた違う視点から整理して『月刊環境自治体』(1999年10月号)にも記事を掲載した。ボルダーの章は雑誌『ビオシティ』(30)で掲載した記事をベースにしており、またデービスの章は筆者が主催する明治学院大学のゼミが発行する雑誌『ハビタット通信』(2号)で掲載した記事をベースにしている。カール・ワージントンの取材記事は、雑誌『ビオシティ』(30)で掲載したものを再掲している。

 本書を完成させるまでには、多くの人との出会いと協力があった。すべての都市において、現地の関係者からは多大なる援助をいただいた。彼ら・彼女らの協力なくして、本書をまとめることはまったく不可能であった。というか、本書は彼ら・彼女らの物語でもある。デービスではイサオ・フジモト(カリフォルニア大学名誉教授)には本当にお世話になった。2003年3月にお会いしてから5回ほど取材をさせてもらった。その間、デービスのまちづくりをするうえでのキーパーソンともいえるマイケル・コーベット(元市長でありビレッジホームズのマスタービルダー)、ランディ・マクニア(ファーマーズ・マーケットの管理人)をはじめとして多くの人を紹介してもらった。彼のサポートがなくては、とても筆者の力ではデービスの施策をまとめることはできなかったであろう。チャールストンでは、市の広報課に務めるバーバラ・ボーン、都市計画部長のイボンヌ・フォーテンベリーに大変お世話になった。フォーテンベリー部長には貴重な図版も多く提供してもらった。バーリントン市ではチャーチ・ストリート・マーケットプレイスのロン・レッドモンド、そしてバーリントン市役所のケン・レルナーにお世話になった。初めてここを訪問した1998年には、同行させてもらった流通経済大学の原田英生教授に、その施策の背景等いろいろとご教示していただいた。原田先生と同行したおかげで、当時市長であったクラベル氏や当時のチャーチ・ストリート・マーケットプレイス委員会の会長であったモーリー・ランバート女史から直接話を聞くことができ、理解を深めることができた。

 ボルダーではカール・ワージントンとピーター・ポラックに複数回取材をさせてもらった。特にワージントン氏には、自邸に2泊ほど泊まらせていただくなど、ボルダーを調べるうえで大変お世話になった。そして、チャタヌーガ市ではエレノア・クーパーに大変お世話になった。クーパー女史は取材候補者との約束を取るために筆者を市議会に連れて行き、そこで関係者を一網打尽に捕まえてしまった。この行動力とネットワークを構築する力に、筆者はチャタヌーガがなぜ、都市を再生することができたのかを知ったような気がした。その結果、リバーシティ公社の副所長であるジム・ボーエン、都市計画課のジェリー・ジーンソン、緑地整備課のジーン・ハイドなど多くの人達に取材をすることができた。また、チャタヌーガの大きな流れに関しては1998年に訪問した時にゴードン・メレンキャンプに多くを教わった。また、ここに名前を挙げてない人々にもいろいろと多くの情報や知見を教わることになった。心からの感謝をここに述べる。

 このようなアメリカの都市政策の本を出すことができたのも、アメリカでの留学時代に私を支えてくれた先生、友人達のおかげである。本書の執筆中の2007年1月16日に、私が留学していたカリフォルニア大学バークレイ校都市地域計画学科の事務を20年間、務めていたケイ・ボックが永眠した。バークレイでの3年間、いろいろと大変なこともあったが、そういう時、ボック女史は時には励まし、時には教員の理不尽な対応に怒りを共有してくれるなど、筆者が卒業するうえで大いなる力となった。彼女の支えがなければ、この本を筆者が執筆するようになれたかどうかも疑わしい。ここに彼女の冥福をお祈りしたい。

 校正では明治学院大学経済学部の学生である赤野瑠美に手伝ってもらい、随分と助かった。そして、取材のためにしょっちゅう空ける家をしっかりと守ってくれる妻の幸子、せっかくの夏休み、春休みに一緒に遊びにいけず、寂しい思いを我慢してくれた二人の娘、絵里佳と亜里沙に感謝したい。

 最後に学芸出版社の前田裕資さんと中木保代さんに心からの御礼を述べたい。締切を何度も延ばすという失礼をしながらも、我慢強く筆の遅い筆者を信用(?)してくれた前田さんの寛容さと中木さんの卓越した原稿チェックがなければ、この本は日の目を見なかったであろう。本当に有難いことである。

2007年9月30日
服部圭郎