環境と空間文化


環境はどのように文化を生成するか

衛生と貧困
  環境と空間文化の関係が、単にどちらかがどちらかの制約条件であるに過ぎないのか、あるいは二つの間のクリエイティブな関係が成立しうるのか、というところが本書の議論の鍵かと思います。そのことを、やや歴史を遡って、仮に環境思想と空間文化という切り口で考えてみます。この環境思想と空間文化との間の親密な関係、ないしは敵対的な関係、または非常に創造的な関係というものを振り返ると、決してここ数年だけのことではなく、少なくとも120〜130年、産業革命の結果としての社会と環境の混乱にまで遡ることができるのではないかと思います。

 産業革命の後に、大都市を中心にした生活環境の悪化、貧困の拡大というような大きな社会問題が出てきました。この生活環境と貧困というような、社会的側面と環境論的側面を持つ大問題に対して、19世紀の中頃にさまざまな新しい思想的ないしは社会改革運動が出てきます。なかでも、最も大きな影響を20世紀に与えたのは、もちろんマルキシズムであって、その象徴的出来事は1848年の共産党宣言だったと思います。これが経済と社会の仕組みを変えるという形で大都市の貧困問題、環境問題の悪化に太刀打ちしようとした。

 もう一つ、文化の方面から大きな影響を与えたのがジョン・ラスキンです。彼がヴェネツィアを訪れ、中世という世界の持っていた造形の豊かさ、環境の素晴らしさに衝撃を受けて、『ヴェニスの石』という悪魔的大著を完成させるわけです。ラスキンのヴェネツィア訪問は1845年ですが、この時すでにヴェネツィアに渡る鉄道も開通し、街にはガス灯も輝いていました。もはや中世の闇は薄れかけていたのでした。近代化の波がユートピア的なヴェネツィアにも染み渡っていた。そういうなかで、ラスキンは中世への憧れを切々と語り、数知れぬデッサンにその情熱を託しました。

 ちょうど、マルクス的な社会思想の延長線上で悪戦苦闘したのが、ウィリアム・モリスでしょう。人によっては、彼を19世紀を代表する社会主義者であると理解することもあるし、あるいは古典的な造形とモダニズムの境目に立って、どちらかというとモダニズムの始祖として理解されることもあり、ちょうど空間文化と環境思想の両方に軸足を置いていた、まさに時代の生んだ思想家であり行動家であったかと思います。

 モリスが1890年に『ユートピア通信』という本を書いて、夢の中で目が覚めてみたら、濁ったテームズ河の水は清流に変わり、醜い鉄の橋は一晩にしてポンテ・ヴェッキオのような美しい橋に変わっていたという、あの有名な一節は環境文学の走りみたいなものであります。このようにして、環境思想と空間文化は両方が悪戦苦闘を繰り返してきて、産業革命に伴って起こった環境と文化の途方もない破綻が、思想界の大きな話題になるわけです。その二つの間の矛盾を何とか調停しようという動きの頂点が田園都市だと思います。1903年にスタートしたこの動きは、環境の問題と文化の問題を調和させようとしたわけです。田園都市の面白さは、ユートピア社会主義的なラディカリズムの反面で、文化的な保守主義が混じりあっていることです。実際、田園都市の具現化の一つであるレッチワースに携わった建築家たちは、カミロ・ジッテを熱心に読んでいたという記録もあります。中世の広場を研究したジッテの基本思想もラスキンに近い中世崇拝だったと思います。田園都市においてはこういう造形的保守主義と社会主義的ラディカリズムの並存は、ある意味で矛盾してもいるのですが、適度のバランスがとれており、一種の小宇宙的調和をつくりあげた。これが広く大衆に支持された理由でしょう。これが環境と文化の破綻を収束させる第一段階であったかと思います。

 一方、大都市ではパリのオースマンの改造があります。これは普通は環境論とは見られていませんが、やはり緑や衛生は大きなモチベーションでした。ヴァルター・ベンヤミンの編纂した19世紀のパリに関する詳細な証言のドキュメントを見てみると、オースマン以前のパリがいかに汚く臭く、日が当らず、環境が劣悪であったかということがよく分かります。それをオースマンははっきり意識していた。当時、たくさんの公園をつくったり、街路樹を植えたりします。緑地はロンドンの影響が大きいとされる一方、パリの肺とも言われていたように、やはり空気の汚染や風通しの悪さが問題にされ、衛生思想と緑地が非常に大きく関係しています。パストゥールのバクテリア発見以前の話ですが、彼が環境の問題を意識していることが言えると思います。それが国家的な文化意匠であるパリと何とか調和をとっていた。これは一種のブルジョワ的調和といったらいいでしょうか。

 このように、19世紀の産業革命によって提起された環境と文化の間の亀裂といったものが一応の調和をみることになります。パリに代表されるような動きはアメリカにも伝播して「シティ・ビューティフル」という動きも起きるのですが、次第に機能主義的な傾向になり「シティ・エフィシェント」というような方向へ動きます。

エコロジー思想とその技術化
  やがてモータリゼーションが進むにしたがって、19世紀に打ち立てられた暫定的な調和が破綻します。ル・コルビュジエのような建築家はそれを早くから予見していました。いわゆる機能主義を提案し、そのなかでオースマン的な回廊型街路を批判して、『輝く都市』を提案するわけですが、それは太陽や緑、屋上庭園のような風の吹きぬけるイメージにより、コルビュジエ的な形で環境を意識していたのだろうと思います。機能主義的なものを志向していた点は、オースマンとコルビュジエは正反対であるように言われますが、それは意匠的レベルの話であって、環境と交通の機能主義という点で、思想的に類縁関係があるように思います。

 一方、インフラストラクチャーもまったく同じで、オースマン的な街路の持つ緑と都市の調和というものは、モータリゼーションと同時にだんだんと古臭くなってきて、それに対してインフラの面では1919年、欧州ではアウトバーンのモデルが、アメリカではパークウェーができます。これらは、アメリカでは造園的な手法と自動車道路という巨大な人工物との景観的調和を目指していました。

  一方、アウトバーンの方は、ランドスケープは重要ではあるけれども明らかにエコロジー思想の影響を受けています。ドイツでは19世紀のヘッケルの時代にエコロジー思想が台頭してきており、その影響を受けたエンジニアがアウトバーンの建設現場にたくさんいました。今でも読まれている『インゲニオイア・ビオローギー(技術者生物学)』という古典的な本には、道路で必ずなされるのり面の保護や植栽の問題が主題になっています。最も重要なのは、表土を保存し再利用する方法です。土を重視する姿勢はヘッケル譲りのエコロジストの伝統かと思います。後にゲルマンの純潔主義の影響でドイツ流の戦前の国粋主義とエコロジーが結びつくような、歪んだ思想の状況が生じてしまいました。しかし、それがドイツのアウトバーンのランドスケープをつくっていくわけです。有名な話が残っています。当時、高速道路の最高責任者であったトット博士は「風景と土地は人間生活と国民文化の基礎であり、技術者はその風景と土地を保持しなければならず、また新たな文化価値が生まれるように構造物を設計する義務を負う」と言っています。これは単なるお題目ではなく、技術者はこれを信条とし、それが道路景観工学として技術化され、今も古典として読まれています。

 このようにエコロジー思想が高速道路の設計に取り入れられ、単なる思想のレベルを超えて技術化されていきます。その結果、ランドスケープという言葉で表されるような「視覚的調和」が回復されるわけです。これは19世紀的な衛生的次元での環境調和、小宇宙的な田園都市的な調和というよりも、もう一段大きなスケールでのエコロジー的調和だったかと思います。結局、産業革命で始まった環境と文化の破綻は19世紀の末に取り戻され、その後のモータリゼーションで再び壊れた調和もこのように回復してきたことがだいたい分かります。これが1950、60年代、いわゆる機能主義的な年代の動きです。

地球環境というパラダイム
 ところが、1960年くらいから再び環境と文化の間の破綻が起こってきます。例えば、騒音というそれまでは思いもつかなかった問題が生まれ、義務付けられた遮音壁によってランドスケープが成り立たなくなる。環境へ重点が置かれるにつれ、ランドスケープの根っこが掘り崩されていくような事態です。騒音だけではなく、さらに『沈黙の春』で注目を集めた化学物質汚染も出てきます。やがて「地球環境」という大きなレベルでの環境調和が取り上げられます。地球環境の破綻は、生物の多様性が失われるという、遺伝子レベルの現象にまで及び、環境に対する科学的理解が深化し拡大するにつれて、環境概念とランドスケープとの調和、バランスがとれなくなってきます。環境文化の方では、機能主義の末期に突然『タウンスケープ』という、19世紀のカミロ・ジッテの血筋を引くと思われるような造形論が出てきたり、ほとんど同じ時代にケヴィン・リンチの『都市のイメージ』のような都市全体を扱う非常に大きな記号学的枠組みが出てきます。

 これらは環境科学と環境文化の調停役になったでしょうか。思想的にどう位置付けてよいか分からないような、沸騰する、あるいは混乱する60年代がありました。この時代、環境文化に携わっている我々も「environmental design」などとよく言いましたが、それはほとんど空間文化の問題を扱っていました。ところが現在は、環境デザインというと、だいたい公害対策や環境システムがイメージされるというほどに、思想的な地すべり現象があったと思います。要するに、文化としての環境美と生態系としての環境との間の対話がすれ違ったまま、互いにそっぽを向いてしまいました。

 書店には〈省エネ建築〉や〈エコロジー型建築〉と冠するたぐいの本が並び、都市に関しては「エコポリス」という言葉も使われています。インフラ関係では環境への影響を減じる「ミティゲーション」という言葉が使われるようになっています。その代表が「多自然型河川」で、コンクリート三面張りの河川を擬似自然的な川に戻すものです。あるいは「エコロード」といって高速道路に猪が通る橋をつくることもあります。これらは、環境文化の再建に向けての技術的な第一歩かもしれませんが、人間社会に根を下ろすにはまだ時間がかかりそうです。学問的なレベルでは〈環境○○学〉というのが実にたくさんあります。末石冨太郎先生の『環境学ノート』という本では、「接頭環境学」と辛辣な批判がなされるように、例えば環境生態学というのは単なる生態学に変わりないわけです。環境建築学、環境情報学と、人間文化の設計に何でもうわ言のように「環境」を冠する日和見的な状況は、やはり環境学と文化論の対話があまりうまくいっていないことの証拠だろうと思います。

 ただ、このような現在の環境主義は実に根が深いもので、一つはグローバルなレベルで地球の危機を捉え、一方では生物の最小単位DNAにまで影響が及ぶというような見解が突きつけられる。こういう状況でランドスケープ、風景の視覚的調和を考えるといっても説得力が足りない。環境主義は、ちょうどマルキシズムが100年にわたって影響力をふるったように、今後、100年くらいは続くのかと思います。そして文明の対立、貧富格差の問題が21世紀の地球システムを揺るがしていくのかと思います。

 ここで改めて環境主義を取り上げてみると、非常に科学的、かつ唯物論的で理論的にしっかりとしたシステムを持っています。また一面では非常にユートピア的理想主義、自然に対する理想主義的な側面を持っています。また、それら環境保護のために、一種の官僚的資源配分計画がなされるようになります。結論としては、現在の環境主義は過去のマルキシズムに似たようなところがあって、環境社会主義のような全体的管理主義の方向にいくのではないかとも考えられます。もしそうなるとしたら、そこでは人間の精神の自由や文化の創造性、あるいは生きるモチベーションをどこへ持っていくのか、という根源的な疑問が出てきます。

 この文化と環境の分裂に対して新しい調和の理論があるのか、あるいは対立のまま弁証法的に止揚していくのか分かりませんが、いろいろな考えがあります。1935年に和辻哲郎先生が出された「風土」という概念では、自然と文化の交じりあった、文化化された自然の概念を取り上げ、オギュスタン・ベルクも、風土としての地球であって原始自然の地球ではないと言っています。そうすることで文化と環境の問題を和解させようとするのです。あるいは日本の伝統の中にそういうヒントがありそうでもあります。例えば「風流」というようなライフスタイルは非常に自然順応型ですし、美学的にも「草体美」などという感覚も極めて環境美学的であります。あるいは生命の多様性に対して文化の多様性を取り上げる傾向も、環境主義とバランスをとろうとする動きではないかと思います。

環境と文化──デザインのモチベーションとして
 続く議論では、いろいろな立場から新しい考えやヒントが出されるでしょう。環境と文化をぶつけることによって創造的、弁証法的な発展があればと思います。2003年に東京で行われた日仏都市会議で美術評論家のカトリーヌ・グルーは、都市において「目新しい場所 nouveau lieu」よりも「新しい関係 nouveau lien」が重要だと言っています。六本木のような新しい場所よりも、自己と他者との新しい関係付け、コミュニティの再建が大事だと。もう一つは自己と世界との新しい関係です。それは未知なるものへ自己を関係付ける創造的行為、芸術行為であります。関係という考えを持ち込むと、未知なるものであるところの自然、環境への意味付けができ、そこに文化的創造性の可能性が生じてくるのではないかと思います。グルーがもう一つ引用するのが、ハンナ・アレントの指摘する三つの危機の克服で、それは消費社会、全体的管理主義、そして世界の疎外(アリエナシオン)です。世界の疎外というのは、例えば、世界を無視して自分に閉じこもる、あるいはマイナスの財産を公害としてシステムの外へ廃棄し無視してしまう、またはヴァーチャルな世界に閉じこもるような姿勢のことです。この現代的通弊を克服しなければならないとアレントは言いますが、この警告は環境設計者に対しても有効だと思います。

 環境と文化あるいは自然と文化という二元論の超克を問題として提起しました。
 議論するうえで重要な姿勢の第一は、多分野への越境あるいは多重性に創造の契機を見出すこと、第二は、事例を重視することです。アプリオリに二元論を超える理論や規範をつくろうとするのではなく現場の事例に学ぶことです。整然とした理論にこだわるよりも、むしろここで取り上げる環境と文化の問題を捉えるには、事例の中に重要な価値が含まれていると考えるからです。本質というよりも複雑で不安定な事例的表層に重要なヒントが拡がっているのではないか。二元論の融和というような超越的な問題に立ち向かうには、事例は本質と同等の価値を持つと言えるかと思います。第三は、歴史を重視すること。歴史のプロセスの中で生まれてきた環境の意味付けを捉えることです。第四は、市民参加の役割を見直すこと。要するに、上から管理する形で新しい組織をつくるのではなく、内部から自己生成される組織、コミュニケーションのあり方を考え直すことです。第五が、現場重視、ローカルなものの重視です。ローカルというのは、中心か端かというのではなく、個々の場所(locus)の重視です。

 本書の執筆者はすべて、右に述べた条件を満たす先生方です。特に次のような立場から今日の討議に参加していただきました。小野芳朗先生は環境学に歴史的な視点を導入することにより、環境─人間系の意味論的圏域をきり拓こうとしています。工学系の先生方の中でただ一人、農学系から参加された堀繁先生は、環境形成における超越者の重要性を強調され、特に山川草木という大地の言語に注目しておられます。建築家としてご活躍の内藤廣先生は、近年、土木分野との間の壁を打ち破って大地へ開いた建築という新しい境地を開きつつあります。その成果はランドスケープの地平に属するものです。齋藤潮先生と土肥真人先生は、いずれも社会工学という融合分野で仕事をされながら、デザインにおける真実について厳しい問いを投げかけ、あるいは、市民参加の可能性を指摘しておられます。

 このような先生方の議論は、環境と文化の観念論ではなく、デザイン行動を通じた新しいモチベーションの創出になるのではないかと考えています。そうすることによって、環境と文化の相克に一石を投じることができれば幸いと思います。

中村良夫