コミュニティの再生とNPO/序


 私は、サンフランシスコに住んで今年で13年目になる。アメリカに移り住んだのは19年前だが法律上はまだ外国人、つまり当地では「エイリアン」である。私にとって、この町は私の子供達の町であり、我々家族の将来でもある。この町で一度は失業して路頭に迷ったこともあるし、路上強盗に襲われたこともある。いわば私にとって世間の厳しさを身を持って教えてくれた有り難い町でもある。連邦政府や州に支払う所得税よりも、ずっと多くの固定資産税を市当局に毎年支払っていることもあって、今では自分のことをすっかりサンフランシスコ市民だと思っている。

 私は星条旗や日の丸という国家的なものに愛着がない。しかし黄色で縁取りされた不死鳥マークのサンフランシスコ市旗は、私に特別な気持ちを抱かせてくれる。具体的に体で実感できない国家が、個人の思想や感情に訴えようとする面があることに、真の自由と正義からかけ離れたものを感じる一方で、わが愛するホームタウンは、社会的な広がりとしてのコミュニティを身を持って感じさせてくれる。参加することによってコミュニティの一員としての実感が得られるのである。小さな裏通りはともかく、サンフランシスコの主な町並みはすべて知っていて、そこにどんな人々が住み、どんなコミュニティを形成しているかに慣れ親しんでいるせいでもある。

 17年前ボストン近郊に住んでいた私は、学校を卒業したばかりで職を探していた。運よくサンフランシスコで仕事を見つけ、面接のためあこがれの土地にやってきた。その時最初に泊まったのがテンダーロイン地区のとあるホテルであった。その辺りには、現在青空駐車場になっている敷地に、空港バス・ターミナルが建っていたのを覚えている。当時サンフランシスコへ来る旅行客の多くは否応なくその地区に放り出されたものである。テンダーロイン地区は私のサンフランシスコに対する第一印象であった。ここには市内で最も多様なストリート・ライフがあると共に、数多くの非営利団体(NPO)がコミュニティ再生活動を行っている。それらのいくつかを本文で詳しく紹介してゆきたい。

 サンフランシスコは、国内の観光客に最も人気のある町である。しかし他の大都市と同じく、絶対安全な地区というものはどこにもなく、一定のルールに従って暮らしていないと事件に遭遇しやすい。日常的に見ても、たとえば1万人以上もの人々がストリート・ピープルと呼ばれて路上で暮らしている現実がある。また学校では片親しかいない児童はむしろ大勢で、本人の資質や人との出会いなどにもよるが、一部の子供にとっては生き延びるだけの生活に陥りやすい環境もある。私の息子の一人は、2年ほど前に公立中学を卒業したが、学校でロッカーを破られたり、昼の弁当を盗まれた事も一度や二度ではない。

 これらの出来事の側面の一つひとつが、我々の日常生活に直接関わる問題となってくる。たとえばストリート・ピープルの支援グループの家庭訪問がしばしばあり、援助を請われる。毎年忘れたころに警察(正確には警察官協会)から電話がかかってきて、恵まれない子供達のための資金集めに協力を求められる。このような状況のなかでは、自分のコミュニティの問題に無関心で居続けることは大変難しい。サンフランシスコについて、ストリート・ピープル、社会福祉施設、それに援助付き住宅などといった楽屋裏の問題を取り上げてゆこうとする理由が、少しご理解頂けたことと思う。

 サンフランシスコは過去1世紀半にわたって「ませた」子供のようにアメリカの大都市の抱える多くの問題を早々と体験し、同時にその解決に向けて社会改革の先駆的存在であり続けてきた。反戦運動をはじめ、市民権運動、人種解放運動、堕胎・反堕胎運動、環境保護運動などの、なかでも特にラディカルな活動の中心地としての地位も築いてきた。また典型的な家族形態に反旗を翻す代替的ライフスタイルの中心でもある。代替的ライフスタイルとは、かつては伝統的な家庭に代わる生活様式、たとえば結婚しないで同棲したり、親と一緒に暮らして独身で通すといったことを意味した時代もあったが、夫婦親子のそろった家庭が少なくなってきている今日では、次第にゲイおよびレスビアンを指すようになっている。

 今や世界中の同性愛者のメッカともなっているこの町は、常にアメリカ社会の最先端の社会問題を問い続けてきたし、今後もそうあり続けるだろう。司法、立法、行政上の判断や憲法解釈まで、すべて一般市民の良識が重要な役割を果たすこの国である。その良識も時代と共に変わりつつある一方、150年前の西部劇の時代の良識に固執する人々がいるのも事実である。

 社会福祉に対する考え方も時代と共に変わってきて、アメリカでも紆余曲折を経てきた。前世紀には、上層階級が自らの繁栄を守るために、共生の相手である下層階級を生かしておくための方策に近い概念も一部には存在した。それが一般市民の慈悲心による施しや、父親のような政府による温情的な弱者救済といった制度を経て、次第に市民が民間主体の組織を作ってコミュニティの一員として広く隣人を助けるようになってきた。本文で紹介するように、サンフランシスコでも多種多彩な非営利団体やボランティア団体がある。そして、彼らの社会活動のほとんどがセルフヘルプの原則のもとに被救済者の自立の道を確立してゆくシステムに進化しつつあるのは素晴らしいことである。

 しかしながら、公共の福祉政策の中心となるべき市政府には、民間の非営利団体や企業の設立した財団などとの協力関係を有効に推進できるだけの仕組みが、まだ確立していない。市の公共政策の青写真であるジェネラル・プランには、住宅や社会サービスなどのエレメントに関する一般的な方針はあっても、官民協力についての具体的な方策は示されておらず、まだ個別対応の暗中模索状態にある。市長室特別住宅部や再開発局も、次第に一貫した方針は打ち出すようになったものの、他の部局と緊密に協力しながら計画を実現してゆくだけの力をまだ持っていない。

 サンフランシスコでは96年6月、95年秋の住民投票で可決されたプロポジションEに基づいて実に65年ぶりに市の憲章が改正された。当時の憲章は世相を反映してか、役人の汚職を防ぐために権力を極力分散していた。選挙で選ばれた市の10の地区の代表であり、あえて言えば市会議員に相当するスーパーバイザーや市長に匹敵するような権限が、被任命役である行政官や委員会にも与えられてきた。ところが96年からは、民意をより反映させるために選任の役職への権限を大幅に増大したのである。これによって、各部局間の協力関係も比較的単純化し、社会福祉政策についても円滑な実行が期待されている。

 多くの真剣なプロフェッショナルやボランティアに支えられて確実な結果をもたらしている多種・多様な社会福祉プログラム。これこそ我々サンフランシスカンの誇りであると共に、サンフランシスコが全米の都市の指導的役割を今後も担ってゆく大きな原動力である。私自身も、この町が抱えている最も根深い問題の一つを少しずつ解決する活動に今後も協力してゆきたいと思っている。またそれが可能な前進的で多様な土壌がサンフランシスコには存在すると信じている。

 さらに、今までさしたる成果をあげられなかった公共住宅局も、96年から人事を一新して根本的な改革を行うことになった。その大きな特徴は、従来型の公共住宅の廃止である。これにより、低所得者住宅の建設における民間の非営利ディベロッパーの役割が一層増大している。このような新しい動きの中で、市の公共政策と民間の活動がどのように協力しあって、コミュニティの再生を実現してゆくか、というのが本書の重大なテーマの一つである。そこでまず最初に、サンフランシスコの住宅事情から紹介してゆこう。


川合正兼/学芸出版社

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