サンフランシスコの都市計画局長に就任した1967年3月から、初めての予算編成案の作成の時期であり、また選挙により新しい市長が選ばれた11月までの間の記録である。彼の当初の戸惑いと多忙な仕事への没頭、その時点で彼の目に映った市政府の状況などが、克明に語られている。
彼が大学における教職の地位を捨て、市の都市計画の責任者としてサンフランシスコにやって来たのは、なぜだったのかを自問し、初めて遭遇した行政組織の非効率さに対して苛立ち、押し寄せる定常的なあるいは臨時の仕事に無我夢中で取り組む姿が冷静に記録されている。市民の行政に対する強い不信感を身を持って体験し、自ら市民の集会に飛び込んでいく彼の初期の意気込みも感じられる。これらの彼の初期の経験に基づく感慨は、やがて冷静な再評価を経て変質していくが、今後展開する様々な問題の萌芽がこの時期に既に見え始める。
個人、企業、公共事業の主体など、様々な動機づけと利益追求の目的を持った個人や集団が都市の形成にあたっている。都市計画とは、このようなたくさんの都市形成の主体をある方向、ある目標に向かって「計画的に」動員する仕組みである。当然、政治、行政、司法などにより構成される政府が計画の作成と実施の主役になる。しかし、社会主義の国ならいざ知らず、また近代国家の成立以前から自治的な都市が存在してきたヨーロッパならいざ知らず、特に日本やアメリカのように自由主義経済の下にあって、都市の自治の歴史が浅く短いところでは、政府の機構の中に都市計画をどう組み込むのかが大きな問題となる。特に地方分権の大きな流れの中で、地方自治体が都市計画に主体的に取り組み始めざるを得ない日本では、今後、地方自治体の中で都市計画をどう位置づけ、市民のニーズに応える効率的な仕組みがどう作られるのかが、重大な課題である。
強い自治の伝統と高いレベルの市民参加が見られるサンフランシスコの政府の構造がどうなっているのか、その中に都市計画の仕事がどう位置づけられているのか、さらに、この政府の構造の中で、都市計画の専門的な教育を受けた職員が、どのような立場に置かれ、どのようにその立場を利用しようとしてきたのか、これはサンフランシスコという都市の計画を支える基礎的な政治構造、行政の組織、そしてその中での都市計画という仕事のあり方についての精緻で率直、具体的な報告である。同時にこれは都市計画の現場を通じて見た民主主義的な行政組織論にもなっている。
日本の政治行政の組織とは大きな違いがあるが、ヨーロッパで見られるような強い都市計画の仕組みとは違った文脈の中での共通性もたくさんある。日本の仕組みと比較しながら読み進めると面白いだろう。
1968年、新しい職員の登用による苦難に満ちた局の増強を進めながら、市議会、新しい市長、委員会などの人間との関係も確立し、フルピッチの仕事の展開が始まる。このような水面下の努力の成果が出始め、本来の仕事が急ピッチで進む時期である。都市計画局に通常の事務として持ち込まれる様々な都市計画、都市デザインに関連する事項への積極的な関与を通じて、市政府の中に確固たる位置が築かれ始める。
同時に、マスタープランによる合理的で、公明正大な都市計画の運用という彼の基本哲学に沿って、住宅、都市デザインなどの要素別のマスタープランづくりに取りかかる。また、積極的に地区集会に顔を出し、住民参加による近隣計画づくりに乗りだす。
個別の案件処理や積極的な計画づくりを通じて、地方政府の民主的な構造に対する彼の姿勢、都市計画・都市デザインに関する彼の基本的な考え方が見えだす時期である。
サンフランシスコにおける都市計画局の役割は、あくまで、計画を立てることで、その実施については勧告をする程度で、実質、土地利用を規制するゾーニングの権限しか持っていない。計画の実現に向けて事業を行うことは、他の部局の権限に属する。しかし、都市の、特に近隣地区にまで及ぶ徹底した、地域と住民に関する付き合いの深さから、都市計画上どんな事業が求められ、どんな社会問題が発生しているのかを熟知している都市計画局にとって、事業実施の手段が与えられたり、他部局の事業についての指導性を発揮できれば、という願いは強い。
1965年に始まる連邦の都市美化プログラムは、市政府のどの部局でも補助事業の対象になるという制度であったため、都市計画局が実施に介入する絶好の機会を与えることになった。ジェイコブスはこの機会を逃さず、この補助制度を限界まで利用して社会的に強いニーズがある事業の展開を、都市計画局の主導で実現した。特に、従来公共事業では顧みられることが少なかった、貧しい地域での小公園事業を幅広く展開し、住宅地の環境改善事業と相まって大きな成果を上げた。この努力は、ニクソン政権の成立で連邦政策が変わることにより終わるが、権力的には弱い立場に置かれている、都市計画部局でもやり方によっては大きな実績を上げることができることを実証している。
サンフランシスコのように比較的低密度で、特徴のある街をどう維持発展させるのか、これは都市デザイン上の大問題であると同時に、住宅問題の上からも悩みの大きい問題となる。一方で、サンフランシスコには大胆に再開発を進める再開発公社があり、老朽し、住宅条例に違反する住宅が多い地区を除却して、再開発が進められていた。その結果は、マイノリティーグループの追い出しにつながり、再開発に対する市民の反感の高まりがあった。都市計画局は、総合計画の要素計画である住宅計画を、近隣レベルの合意を得ながら作りだすと同時に、建築監督部と共に住宅条例の違反取締りを強化しながら、近隣レベルの公共施設の整備を行う事業、住宅基準適合化事業に取り組み、7地区で大きな成果を上げる。連邦の補助金を使いながらも、市独自の路線を生みだしていく。ニクソン政権になり、連邦の補助がなくなると、今度は市単独の修復事業制度を生みだし、大きな成果を上げる。
この事業を通じて、市の内外の支持が高まり、計画局の地位は一段と高くなる。総合計画を視野に入れながら、計画、デザインという視点を持って近隣レベルの事業に積極的に介入し、計画全体への信頼を取り戻していくプロセスが見事である。
1969年から1972年にかけてのサンフランシスコにおける都市計画の黄金期と呼ばれる時期の都市計画局の取り組みとそこでの教訓を述べている。この頃は住民の意識など都市計画を巡っての社会環境が大きく変化した時期であり、都市計画局はこれまでとは異なるアプローチで市のマスタープランの要素計画の策定など都市計画の実践に取り組んだ。そのアプローチの特徴は、市民に開かれた計画プロセスであり、また場当たり的な開発に対処するための一貫性のある総合的な計画づくりである。こうした取り組みを通して、市長、議会、都市計画委員会、行政内部の他の部局、民間デベロッパー、連邦政府、マスコミ、市民グループをはじめとする諸々の利益団体などへどのように対処したか、またその結果としてそれらとの関係がどのように変化したか、さらにこの時期における都市計画局の取り組みに対する評価とそこから得られた教訓を詳述している。
サンフランシスコにおいて都市デザイン計画策定の一つの契機となったのがトランスアメリカ・ビルを巡っての論争であった。当時の都市計画の法律と手続きを巧みにかいくぐり、場当たり的な対応で、既存の道路の廃止とピラミッド型の高層ビルを実現しようとする民間デベロッパーとその計画の変更を求める都市計画局のプランナー達とのやりとりをドキュメントしている。ここでは、当時の開発の審査プロセス、市長をはじめとする政治的な立場により行政の決定に圧力をかけようとするグループ、行政内の他の部局、マスコミ、市民等の関係者の対応などが描かれる。そして明確な規準がないので、都市計画委員会が自由裁量型の審査という手続きにかけずに場当たり的な計画案に対して結論を出してしまうことの問題と、そこから引き出される教訓を明らかにしている。
1960年代後半にかけて、サンフランシスコの景観に大きな影響を及ぼすと考えられる高層建築物や高速道路の建設に対する市民の関心を背景に、1967年、都市デザイン計画策定のためのスタディに着手することを決定する。HUDや議会との困難な折衝を経て、計画策定作業のための作業費を獲得する。さらに、計画策定のプロセスに広く市民の意見を反映するために市民諮問委員会を組織する。1968年末から約2年間をかけて、八つの予備調査レポートと三つの特別調査レポートを作成・公表した。こうした予備調査をもとに策定された都市デザイン計画は、1971年8月26日に、都市計画委員会によってサンフランシスコのマスタープランのうちの都市デザインの項として採択された。都市デザイン計画は、固定した具体的な都市像を図で示すのではなく、都市デザインのための目的、基本原則、基本方針から構成されており、民間の開発プロジェクトのコントロール、地区レベルの計画、具体的な公共施策に対する意思決定の指針となる政策文書であるところに特徴がある。
また、都市デザイン計画を実践するために払われた政府の努力が報われたのは、計画やその準備に関わった人々の性格によるところが少なくなかった。
都市のマスタープランの重要な要素計画である都市デザイン計画が制定された。これを実現するためには、建築物の高さや容積を規制する地域制条例、すなわちゾーニングを決めなければならない。サンフランシスコでは、従来、用途の規制は市をカバーしていたが、建物の高さは一部の地域にしか決められておらず、場当たりの裁量によることが多かった。全市にわたる包括的な高さと容積を決めることが必要だった。しかし、都市デザイン計画によって暫定的なガイドラインは既に決められており、裁量の幅のあるガイドラインを条例として厳密に規定する必要があった。この努力に先立ち、あるいは平行して、高層建築の乱立に苛立った市民が、直接投票による規制案を、ダスキン高さ規制発議として提出し、市民投票にかけた。この発議案は不十分なものであり、都市デザイン計画に則った体系的なアプローチによる条例案の敵ではなかった。都市計画委員会、市議会、近隣市民組織、報道機関等の反応を確かめ、膨大な作業をこなしつつ、一歩一歩条例案を固めていくプロセスが克明に綴られる。都市計画とは無縁の単なる規制のための条例になりがちなゾーニングを、都市計画の過程の一部として正確に位置づけながら、政治的に難しい規制を課すことができたジェイコブスの勝利の物語である。
1972年から74年の間の都市計画局は、リクリエーション・オープンスペース計画、地震安全計画、交通騒音規制計画、交通計画など、色々な分野の計画を作り、ゾーニング改正を行い、住宅計画の作成とその事業化への努力など、精力的に仕事を進め、成果も上がった。特に、長年提案してきたサウス・ベイショアの沿岸公園について、州が賛同して大規模な事業が可能になるなど、実り多い時期だった。
しかし、一方、州の指示による環境影響評価や景観保護に関する仕事などが増え、地域主導の仕事ではない仕事、往々にして地域の文脈とは関係の薄い仕事で忙しくなった。他方、市と連邦や州との関係を単純化するために、そして連邦政府の意向により、市長に権限を集中する方向で、市内の都市計画機能の再配分が行われた。市長に直結していない都市計画委員会の指揮下にある彼の部局の仕事の手足がもがれ始める。集権的ではないサンフランシスコ市の政府の中で、最初はその不能率さ、煩わしさに閉口していた彼も、次第に、民主的な市民参加型の社会における都市計画組織のあり方として、現在の分散型の組織の方が望ましいのではないかと考えるに到り、そのような観点に立って、市長室への権限集中に反対する。長年、私生活まで犠牲にしながら打ち込んできた仕事にも、やがて疲れが見え始め、彼は、そろそろ他の仕事に関心を持ちだす。民主的な政府のあり方に関する個人的なモラルに反する現実に対する反撥、仕事の上でのトラブル、市長などとの人間関係、そして何よりも同じ仕事を続けてきたことから起こる疲れ、これらのことを冷静に観察し、自らの気持ちを確かめつつ仕事にあたる彼の矛盾と葛藤の日々が克明に綴られていく。政治行政組織の中で、良心的な都市プランナーとしてどう働き、何に悩み、どう身を処していくか、長年同じ仕事に携わる専門家の正直な告白の物語である。
総合計画の要素であるリクリエーションとオープンスペースの計画の作成と公式な採択に向けての仕事が始まる。公園の事業実施を所管するリクリエーション・公園局との連携の下に、都市計画局の、というよりその局長の思想を強く反映した計画案が準備される。
場当たりでない、全市を見渡した公園の計画、特にサンフランシスコの特色である海岸線と丘陵を活かした計画が立てられる。さらに、ジェイコブスの強い思い入れで、貧しい近隣地区への小公園の計画が強調される。そして事業の優先順位が地図上に明示される。しかし、乏しい財源の中で、計画の実現が難しいと感じると、その実現のための特定財源の確保を目指して、市民への幅広い働きかけにより実行委員会を組織して、市の憲章の改正を発議し、住民投票に持ち込む。最初の試みには敗れるが、再修正して住民投票にかけ、圧倒的多数の賛成を得て、ついに承認を得る。彼の計画のあり方に関する考え方が披瀝され、計画の実現のための彼のダイナミックなイニシアティブが活写されている。
8年に及ぶ彼の経験、実績を振り返りながら、彼のプランナーとしての反省と評価が総括される。まず、総合的な計画を作って、徐々に実践に移していくという計画本来のあり方が、サンフランシスコでは成功したと評価する。総合的な計画は大切でもあり、実効もある。しかし、都市計画はあくまで都市の物的、空間的な環境をコントロールする専門的な技術であり、高度な政治的な判断とか、市民参加への積極的な姿勢が求められたとしても、それは都市プランナーの本来の仕事ではない。
サンフランシスコでは、都市計画委員会は、市長直属の強力な行政組織ではない。しかし、民主的な地方政府の構造の中では、高いモラルと専門技術に、柔軟な政治的能力を備えたプランナーがいれば、サンフランシスコの都市計画委員会のような組織形態が最も市民民主主義的政府に馴染むのではないかというのが彼の到達した哲学である。
それにしても、都市計画の専門家には、優れた専門的な見識と志、そして優秀な専門的なスタッフが必要であることが語られる。そして、アメリカという政治的風土は決して都市計画が歓迎される風土ではないが、地方政府の行政・政治機構の中でも、プランナーは明確な主体性を持って仕事に取り組むべきであり、そうであれば、都市計画は実に楽しい仕事であるはずだとの結語となる。