求道学舎

集合住宅に甦った武田五一の大正建築

序章 竣工式の日は

  竣工式の日は反省会で始まった。2006年4月15日、晴れて竣工式とパーティーが行われることになった。ところが、式の前に、反省会をするという。建物に多少の不具合が残っていたとしても、竣工式の日は全員笑顔でお祝いするものと思い込んでいたのだが。
  求道学舎リノベーション住宅改修工事は、2005年6月に着工し、翌3月に竣工した。当初は暮に引渡せる予定であった。だが、結局は1月20日以降、緊急度の高い住戸から順に、3月まで引越しが継続した。そんな事情で、竣工式は引越し後の生活がいくらか落ち着いてから催すことになった。
  求道学舎リノベーションプロジェクトのコーディネーターチームの一人で、設計者であった私は、反省会と聞いて、一瞬ぞくぞくと不安になった。思えば、大変な工事だった。工期は大幅に延びたし、なんといっても築80年になる建物のリノベーションである。不測の事態がなかったと言えば嘘になる。それに、コーポラティブ方式ではあったが、居住者が自由に設計できるのは専有部分だけ。玄関や窓等は位置も大きさも初めから決まっていて、自分の好みを反映させるための設計相談は、各住戸たった3回ずつしかできなかった。不満があって当然かもしれない。10戸の居住者は一様に穏やかで、こちらの仕事をよく理解してくれた。工期の遅れに対しても極めて協力的であった。反省することなら山ほどあるけれど、あくまで個人的な後悔ゆえ胸にしまっておきたいことばかりだ。いったい誰が反省することを期待されているのだろうか。

そもそも…

  求道学舎は1926(大正15)年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての学生寮であった。隣に求道会館という仏教の教会堂があり、学舎、会館、ともに明治後期から昭和初期にかけて活躍した建築家、武田五一の設計、建主は浄土真宗の僧侶、近角常観(じょうかん)であった。
  1915(大正4)年に建設された求道会館は、レンガ造に木造トラスの小屋組がかけられた2階建てで、東京都指定有形文化財として2002年に修復された。求道学舎リノベーションプロジェクトは、その求道会館の維持費を捻出するために、企画されたのであった。
  10人の出資者を募り、62年の定期借地権を譲渡。その対価として、建物を改修、再生し、コーポラティブ方式の集合住宅として住んで頂くというわけである。プロジェクトの企画統括者で、共同設計者でもあった夫、近角真一(集工舎建築都市デザイン研究所所長)は、近角常観の孫にあたる。
  竣工式前の反省会は、第十一回目の建設組合総会となった。これまでの総会と同じように、求道会館2階の小会堂に、組合員、つまり居住者とコーディネーターチームの面々が集まり始めた。コーディネーターチームというのは、企画統括者、建築設計者、いわゆるコーディネーターの三者で構成されている。小会堂は和室であるため、座布団と小さな座卓を宴会場のように並べ、全員の顔を見ながら話し合いをする。椅子とテーブルよりも、こうすると場が和むと聞いたことがある。そのお蔭か、総会はただの一度も揉めたことがなかった。

終わりよければ

  総会は、経過報告、連絡事項を終え、いよいよ反省会が始まった。重苦しいというほどではないけれど、ほんの少しの沈黙。と、そこへ真打ち登場。この工事の現場責任者のお二人が静かに現れた。まず、工事の遅延を丁重に詫びた。それから、この工事がいかに困難な仕事であったかを説明し始めた。80年前に建設された鉄筋コンクリート建物の歪みがどんな様子であったか、補修しなければならない箇所がどんなに多くあったか、それらを丁寧に長い時間をかけて補修していくため、騒音が長期間続いてしまったこと、近隣との調整に苦労が多かったこと等、身振り手振りも交えつつ、話は延々と続いた。現場をずっと見てきた者には、そのどれもが肯ける話であった。だが、設計監理の立場としては、共感しているだけでは居住者に顔向けができない。反省会はこれからどのように展開するのだろう。閉会予定時刻は迫ってきていた。さてどうしたものかと時計を睨みつつ気を揉んでいたが、反省会の方は揉めることなく、入居時期がズルズルと延びたことに対するお叱りがあったくらい。その責任の一端を担った私達コーディネーターチームが糾弾される場面には転換せず、品よくさらりと終わってしまった。終わりよければすべてよし、とか。

見学ごっこ

  竣工式にはお客さまをお招きしていた。求道学舎リノベーションプロジェクトが如何に多くの難問を克服してきたかはあとの章で語るとして、それらの難問を解くにあたっては何人もの方に助けて頂いた。私達としては、お世話になった方々に、あの廃墟が住まいとして甦った姿を、是非ともご覧頂きたいと思ったのである。もちろん居住者それぞれの招待客も見えていた。真新しい軍手とスリッパが配られ、いざ、居住者どうしの「見学ごっこ」が開始された。一年前から幾度となく総会のたびに顔をあわせ、入居間際には居住者の間で何通ものメールが飛び交ったという。しかし、殆どの人にとっては、実際にお隣近所を訪ねたのは、この日が初めてだったのではないだろうか。
  求道学舎は、基本的には片廊下に6帖の個室がずらりとならんだ3階建てであるが、一部平屋建てで、学生用出入口、食堂、隣り合って厨房と浴室、脱衣室があった。リノベーションでは、個室即ち寮室と、廊下を合わせて再生した8住戸と1事務所の他に、食堂はそのまま1住戸に、厨房、浴室、脱衣室、廊下の一部を合わせてもう1住戸が誕生した。

早まわり住戸案内

  まずは、厨房だったところを再生したお宅へ。とても明るく、初めから変化に富んだ区画であった。住戸では煙出しと湯気抜きの高い天井を吹き抜けのように扱った。管理組合の頼もしい理事長さんである居住者は、そこにシャンデリアを吊りさげ、仕事場を兼ねてエレガントに住みこなしている。窓際には低めの書棚、壁には美しく額等飾られた。そのお隣は食堂を再生したお宅。ここは工事の前まで私達の設計事務所として使われていた。西陽の強烈さ、沁み入るような冬の寒さを除けば、実に素晴らしい部屋だった。ガラスの割れ目から室内に這いでてきた外壁の蔦が不思議に魅力的にみえたものだ。しかし、その原型の美しさを失わずに、現代の住宅として満足できる水準にするには難問続出の区画でもあった。アーチ窓にはアイアンレールにドレープ。天井にはもちろんシャンデリア、ちょっと舞台装置のような、美しく優雅な室内であった。
  こんなにゆっくり見学していると竣工式に遅れてしまう。ザッと早足で見て行こう。
  西側に位置する唯一のメゾネット住戸は、階段を解体できない、という法的条件を逆手にとり、日照採光も解決したお宅。実用階段の踏面には厚い木を貼り、オブジェとなった上階の階段は白塗りだ。プロ仕様の特注キッチンが据えられている。そのお隣は、すっきりコンパクトなお宅。個室2室分12帖の原型がそのまま再生されてフレキシブル。共用廊下からバリアフリーの床には、居住者支給のタイルが貼られた。またそのお隣は、骨董品がよく似合う、落ち着いたお宅。ここだけ時間がゆったり流れている。じっくり味わいたい室内だ。エレベーターで3階に上り、右手へ。このお宅の目玉の一つは、トップライトを開けて屋上へ出る階段があることだ。大抵の人は登ってみる。いつも居住実験実施中。先が楽しみな住戸である。
  お隣は寮室4室からなり、ホテル仕様のバスルームをもった住戸だ。居住者のインテリアセンスと窓近くまでせまった欅の大木とが絶妙なバランス。最後は最も広いお宅におじゃましまーす。もとの廊下をそのまま生かした書庫兼廊下をまっすぐ進む。高い天井に広い居室。特大サイズのテーブルが悠々と置かれている。エレベーターの脇から屋外へ出て鉄骨階段を下りる。足の下に言問通り。2階は、居住者の都合によりパスして、1階西側の事務所へ廻る。ここもメゾネットだ。中央にはスチール製の螺旋階段。室内の仕上げは最も安価な仕様だが、既存のドイツ製床タイルがそのまま保たれ、木製玄関ドアーは同じデザインのスチールドアーに置き換えられた。ここでは求道学舎担当の集工舎所員が留守番役だ。そろそろ私が交代しなくてはなるまい。もっとも、現場担当者は竣工後も引き続きよろず相談係を務めている。今更見学でもないかも知れない。
  各住戸には居住者の家族や知人が見えていて、かわるがわる留守番役を務め、全員が「会場」に散らばりながら見学を楽しんだ。居住者はもちろん、そのまわりの人達との出会いは、住宅設計の仕事を通して得られる大いなる喜びである。その人らしい住まいの景色、住まいの作法は、またとない新たな発見と勉強の機会となった。

みんなで乾杯!

  見たり見られたり760u余りを経巡った後、求道会館で竣工式を行った。求道会館は仏教の教会堂であるから、それらしい式にすることもできたのだが、形式的なことには拘らないのがこのプロジェクトのやり方である。挨拶その他はごく簡単に済ませ、乾杯! を合図に賑やかなパーティーが始まった。どの顔もやっとこの日を迎えることができた喜びに輝いている。居住者の親族や友人、仕事関係の方等あちらこちらでにこやかに言葉を交わしている。きっと長い間心配なさったことだろう。なんであんなモノを買う気になってしまったのだろうと。周りの人は築80年と知って呆れたのではないか。破れガラスに錆びたサッシ、暗くて埃っぽく、雨漏りの跡も痛々しい建物を見ればなおさら、彼または彼女を正気に戻してやらねばと思われたことだろう。だが、それも過去のこと。パーティーの終わりに会場で記念撮影。外に出て集合住宅求道学舎の玄関にてまたパチリ。かくして「終わりよければすべてよし」は実証された。少し寂しかったのは、仕事で出席できない居住者があったことだ。それに、既に竣工後時間が経ち、工事を請け負った戸田建設の若い担当者達が多忙により参加できなかったことも。
  そして、その竣工式の翌日、「超」喜ばしいニュースが学舎内を駆け巡った。求道学舎に赤ちゃんが誕生したのである。何という嬉しいめぐり合わせでしょう! 求道学舎の最も若い居住者のしあわせな未来を願わずにはいられない。長い年月を生きてきた求道学舎自身も、再生の喜びとともに、新しい生命誕生の喜びをかみしめたことだろう。

もう一つの竣工式

  さて、1週間遡って、4月8日に行われたもう一つの竣工式についても記憶しておきたい。正確には、長年求道学舎を住み継いできた近角の親族に対する竣工報告会である。求道会館に十数人が集い、近角真一による経過報告のあと、居住者の好意により、3階の一住戸と私達の事務所を披露した。大正昭和の求道学舎を熟知している親族の間では、大きく明るくなった窓に、ここがあの寮室か、と驚きの声もあがった。かつては考えられなかったエレベーターや、屋上トップライト、コンパクトなアイランドキッチンや開放的なバスルームに感慨もひとしおだったことだろう。とくに、事務所の場所はもともと近角常観の住まいだったため、親族には、現状と記憶の狭間に複雑な思いがあったのではないだろうか。生活の背景として場所の記憶に想いを巡らせるとき、父母や兄弟姉妹、幼い自分、若かった自分の物語が目の前を通り過ぎるだろう。背景はそのままに、ここはできるだけ保存に、と言いながらも、結局は別のものにしている罪の意識が私をチクチクと刺す。私でさえこうだ。近角の胸中は引き裂かれてはいなかっただろうか。親族の誰も手を触れなかった求道学舎にやっと手をつけたのが、そこに住んだことのない近角真一であったことは故なきことではないのである。誰かがやらなければ危険な建物になるばかりであった。これで良いのだ。受け入れられた、と、この日、「共犯者」の私は思うことにした。文化財となり保存活用されている求道会館は「近角常観の記億」として揺るぎなく維持され、再生された求道学舎は、明治35(1902)年に創設された木造の初代求道学舎以来、多くの人々に住み継がれていく生活と心の記憶として、ともに、近角親族の故郷であることには、いささかの疑いもなく。