町家再生の技と知恵

まえがき

 
 明治10年に初来日したモースはひ弱に見えて強靱な木構造、室(へや)にはなにもなくて貧しいとしか見えないが、つぶさに見ると精巧な細工や洗練された装飾による豊かなインテリア、どんな困難な課題でもいともたやすくこなしてしまう、優れた大工を始めとした職人たち、そして日本のどの地域にも独自の職人組織があって、かつ地域固有の様式の住宅があることなどに驚嘆している。そしてその伝統はいずれ失われてしまうとして、各地を回って丹念に書き留めた(『日本のすまい 内と外』、エドワード・S・モース著、上田篤、加藤晃規、柳美代子共訳、鹿島出版会、1979)。

 モースの予告通り、地域の職人組織、地域固有の建築様式、伝統木造構法などは既に失われて久しい。そして民家が形として残った。その民家も'60年代後半の高度成長期以降に急速に数を減らした。'70年代にはそうした状況に対して、かけがえのない文化財として保存しようとする動きが出てきた。初めは研究者による民家調査やコミュニティ調査、あるいは建築家によるデザインサーベイ(伝統的デザインを現代のデザインに取り入れようとするための調査)などであったが、'80年代以降は東京一極集中による地方の沈滞を救う町おこしの資源として、あるいは観光資源として保存・活用しようとする広範な活動になっていった。また単に形として保存するのではなく、住みながら、あるいは利用しながら再生する必要性も説かれるようになった。そして現代に至っては、大量生産・大量廃棄、大量エネルギー消費の現代社会が近未来の破綻を予測させるなか、循環型社会のモデルとして伝統構法が再評価されるようにもなった。しかしこの間も民家は減り続け、群として残ったのは京都の美山などごくわずかになってしまった。また伝統構法の合法化や税、融資などの制度改善、あるいは伝統構法の究明は何ら手つかずのままであった。

 京町家も同様なあゆみをたどり、今や町並みとしての京町家は伝建地区を除くとほとんど見ることができない。点としての京町家を残すことにどれほどの意味があるかとも思う。しかし京のまちは応仁の乱を始めとして、何度も焼け野原から再生しており、あす、あさっての京のまちをどうこうしようと考えなくてもよいのかも知れない。むしろ、いま大切なのは京町家を取りまき、京町家が包んでいた暮らしの総体と京町家の作りとの関係性を提示することであり、その普遍性をあきらかにすることであろう。作り(構法)として京町家は各地に残る民家のなかでは特殊といえる、特に架構部材は豪雪地帯ではないことを差し引いても細い、貫も薄いうえ、柱への渡し込みや楔で緊結することもなく、むしろ例外といえる。しかし京町家を各地の民家の中で位置づけたり、伝統構法全般を語ることは焦点をぼかしてしまう。したがって京町家独自の構法の普遍性とその改修方法を提示することで、各地の民家にも同様な試みが生まれ、それぞれの独自の普遍性が明らかになり、かつそれぞれに共通する普遍性が浮かび上がってくる、という手順が所期の目標に到達する近道と考える。

 京町家を改修することで京町家を保全・再生すべく、つくり手の専門家集団である「京町家作事組」を起こすとき、法律、規準、制度、あるいは慣習が京町家を守っていけるようになっていないということは承知していたが、重文級の伝統建築を手がけ、二代三代と続く職方が集まった以上、京町家の構法については容易に再構築できるだろうと考えた。しかしその見通しは甘かった。なぜならば、京町家が建てられなくなって、既に65年を経過していて、新築に携わった大工はほとんどいないうえ、戦後も省みられることがなかったため、継続的に手入れをしてきた者もいない。それでも一部の職人が得意先の関係で改修を手がけていて、京町家が現にどうなっているかということと、若いときの親方から受けた指導を記憶していて、理解の手がかりにはなりそうではあった。しかしそれは断片的であり、とても総合的な理解は得られそうになかった。“火事は50年ごとに起きるので気をつけるが、地震は100年に一度あるかないかであまり頓着しなかったのではないか”とか“町家は隙間なく繋がっているので倒れないのでは”とかいうありさまであった。また規準が変わってしまっていることも理解を妨げる大きな要因であった。『日本建築学』上巻(渋谷五郎、長尾勝馬共著、須原屋書店、1924、復刊版:新版『日本建築』上巻、学芸出版社、1954)は伝統建築が省みられないことを嘆じて著されたものであったが、すでに伝統建築にはない布基礎、土台、火打ち、および筋違を入れることが前提になっている。京町家を耐力壁や水平構面を基本にした現代の規準で評価してしまうのも無理からぬことである。さらにやっかいなのは参照すべきテキストがないことであった。堂宮や数寄屋は室町時代以降「匠明(しょうめい)」を始めとしていくらでもあるが、書院造のような殿舎はあっても京町家の様な民家について書かれたものなどどこにもない。それは京町家をつくり維持していく技を、携わる職人の誰もが自明のこととして知っていて、あらためてテキストとしてまとめる必要などなかったということであろう。しかし改修して守っていこうとする対象が解らないでは手の出しようがない。八方ふさがりであったが、結局はそれが本書を作る動機になった。

 手引き書をまとめるに当たっては、現代の法律や規準にはこだわらず、“京町家のことは京町家に聞け”ということで、京町家のありようを率直に見て、作り手としてどう見えるか、作った職人たちがどのように考えたかを推測し、こうであろうという成果を積み上げることで、京町家の全体に迫ろうということになった。当初は改修の具体的な施工方法についてのみまとめる予定であったが、“作り方が解らなくて直し方が解るのか”ということで、第2章の「京町家ができるまで」が加わった。これについては現にある町家の構造や仕様を基本にして、各職方が伝え聞いた記憶や今の工法から類推するという方法でまとめた。また“なにを改修して残していくのか解らないでは困る”ということで第1章の「京町家とは何か」もまとめることになった。京町家の歴史や特性に関しては、すでに優れた研究成果や著作があるが、作り手として、あるいは京町家作事組としてどう位置づけるかという視点でまとめた。

 先に述べたように京町家をつくり守ってきた技は、伝承と工夫・改良の繰り返しのなかで、職人にとっては当たり前になっていて、テキストなど必要としなかった。必要のなかったことを承知で、テキストを作るということの矛盾がすなわち明治以降130年間の矛盾の裏返しである。執筆に当たってはできるだけ曖昧な表現は避け、断定的な表現をとった。これは建築に携わる読者、あるいはこのテキストを参照して、改修の実践をした職方から的確な批判をしていただくためである。この京町家作事手引き書が朱筆で真っ赤になり、すり切れてうち捨てられたとき、この「矛盾のテキスト」の使命は終わる。

 2002年4月28日

梶山 秀一郎
京町家作事組・理事長

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