見えない家「「「はしがきにかえて

 

 

 建築のデザインというと、中身よりも形ばかりが先行しがちだが、本来はもっと深いところにデザインの意味があるのではないだろうか。それは、私たちが暮らす、生活する楽しみを見つけだせるものをつくることだと、私は考えている。快適な暮らしを送るには、まず内部空間を充実させなければならない。そして、いつの頃からか、中で生活する上で、外がどうあるべきかを考えたとき、自然を積極的に取り入れた外部空間が最も理想的な住環境だと考えるようになった。つまり、建物に外観は必要ないと、私は考えている。
 外観がなくてもよいといっても、自然の荒々しさから身を守るために必要な内部をつくると、否応なく外観が現われるので、厳密にいえば、地下にもぐる以外、家は見える。しかし、地形や自然(敷地)の表情になぞらえて家を建て、建築を自然の縮景とすることで建築は解体され、住まいは自然の中に入り込み、風景の一部となり、外観はなくなる。そうした思いで私が今までつくってきた家々を紹介しよう。
 下層階を地下に埋め、延床面積の三分の一だけが地上に姿を現わす家(「天と地の家」)、一階の石積みの外壁から持ち出された構造体を兼ねる鉄骨フレームに絡まる緑が二階とそれに続く屋上庭園を囲む家(「万樹庵」)は、いずれもひな壇状の分譲地に建ち、建物は四周に植えた木々や外壁の緑に覆われて、形こそあれ、そこに建物の存在はほとんど感じられない。
 山地の住宅地を背景に緩やかな斜面に建つ家(「司祭の家」)、蛇行する道路から落ち込んだ急斜面に建つ家(「回帰草庵」)は、いずれも自生樹木と地表を残しながら、建物を地形になじませ、あるいは沈み込ませて分散配置した。これらの建物は、建築として構成されたというよりも、大地や山林の光景になってしまっている。石畳を敷いた屋根は波打つような人工の大地であり、頂く屋上の庭園は草原になる。
 こうした「見えない家」は、ひな壇状の住宅地では、その存在自体が小さな森である。また山林においては、周囲の森林に埋没して、山の美しい眺めを壊すことなく、周辺に建つ家からの眺めにも耐えうる。
 住まう人がくつろぎ暮らすための住宅が、人びとに外観を誇示する必要はまったくない。大切なのは、その住まいが外の自然とどのように関わるかということである。窓際に植えられた一本の樹、室内に続く人工の芝生、壁や屋根に絡まるノウゼンカズラ、窓辺にくる小鳥たち、暗闇を彩る蛍の光跡、天窓にまたたく星、枯木に舞い落ちるさざれ雪。美しい場所は私たちの心をつなぎとめて離さない。私たちの住む街が、そんな美しい場所になるためにも、家は見えない方がよいのではなかろうか。見えない家の中から眺める森や林も、あるいは姿を変えた住まいかもしれない。
 

 


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