町家点描

結 語

町家は生活と共に生きている―祇園祭と京町家―


  うっとうしい梅雨が明け、いよいよ暑い夏がやって来る……、そんな季節になると毎年、京の“町衆”の胸がさわぐ。およそ一カ月近くに及ぶ祇園祭が始まるからである。

  祇園祭と言えば、日本三大祭のひとつなどと言われ、あまりにも有名であり、昨今では観光化も著しい。しかし本来の祇園祭は、長い歴史と伝統に裏打ちされた、京の町衆による町衆のための祭であった。その起源は、平安時代の祇園御霊会までさかのぼる。時は貞親十一年(八六九)、京に疫病が流行した際、その退散を祈頼して長さ二丈ほどの矛六十六本を立てたのが始まりとされる。

  そして天禄元年(九七〇)以降、毎年行なわれる年中行事となり、長保元年(九九九)には、雑芸者が大嘗会の標山に似た作山をつくって行列に加わったのが、現在の山の起源とされる。そして南北朝時代にほぼ現在のような山鉾となり、室町時代に栄えた。それは応仁の乱(一四六七)で中絶したものの、後に町衆の手で再興され、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて盛大となった。祇園祭の長い歴史の中でも、この時期に祭を再興させた町衆の心意気は見逃がすことができない。それがまた町衆の団結を強めたのである。そして「祇園祭は町衆の祭」という伝統は現代の町衆の心の中にも生き続けているのである。

  この時期、鉾や山を出す町々はとりわけ活気づく。七月十七日の山鉾巡行は観光的にも有名で、祇園祭の頂点には違いないが、それ以前の数日間もまた味わい深い日々である。

  山や鉾を守っている隣り合った町々が、それぞれに山鉾を立て始める七月十日過ぎからは、町の伝統に従って祭の準備が進む中、少しずつ興奮が高まっていく。まだ観光客も少なく、お町内の顔見知り同志が組み上がった山鉾を囲んで談笑する。そして、どこからともなくコンチキチンと祇園囃子の音色が聞こえてくると祭りの雰囲気は自然と高まる。そして宵々山・宵山ともなれば、会所や鉾の上から奏でられる祇園囃子は賑やかに、しかも優雅に町を祭りの空間にいざなう。

  この宵山ではまた、屏風祭といって、町会所などに豪華な織物や工芸品が飾られ、古い町家でも、秘蔵の屏風や書画が飾られる。現在では、この飾りはかつてほどに見ることができなくなってしまったが、ひと昔前ならば、こうした飾りつけをする旧家も多かった。そして、現在のような観光客の洪水もなく、程良い人混みの中を、夕涼みがてらそうした飾りを見てまわることもできた。

  山や鉾はそれぞれの町の象徴としてその美しさを競い、見物の人々の目を楽しませる。山や鉾を飾る織物等は遠くはヨーロッパや中近東・インドなどから安土桃山時代に伝えられたものであり、そのほか明代の中国織物や地元西陣織等、近世から現代までのさまざまな染織工芸品も数多い。また、彫刻も素晴らしい。これらの染織工芸品や彫刻は山鉾の上で御神体を表すものもあれば、神話や中国・日本の故事を表すものも多い。例えば、「伯牙山」という山の飾りは、中国の故事にちなんで作られたいくつかの山のうちのひとつである。中国周代の琴の名手伯牙が、本当に自分の琴を理解してくれていた友人の鐘子期の死を聞いて嘆き、斧で琴の絃を切って再び弾く事はなかったという「禁断の友」の故事に由来したとも、晋代の琴の名手が武陵王に召された時、一介の楽人として召されるのを潔しとせず琴を割った故事に由来したとも言われており、江戸時代までは「琴破山」と呼ばれていた。そこで御神体の人形は琴の名手伯牙であり、手に斧を持って今にも琴を割ろうとしている。怒りと悲しみが交錯した表情が見事に表現された、寛政二年(一七九〇)製の彫刻である。

  そして白牙山本体は中国と日本で作られた織物で美しく飾られている。前掛には、中国明代(十五世紀)の、上下に詩文、中奥に人物風景を描いた「慶寿裂」を掛け、その下には龍の文様の綴錦が飾られる。胴掛は花卉尾長鳥文の綴錦。見送りは西陣製の「三仙二仙女刺繍」で、孔雀を従える仙人や白鷺を抱く女仙人など劇的な図柄である。これらの装飾は実に豪華で美しく、祭に華を添えている。

  この「伯牙山」を出す町は下京区綾小路通新町西入ル矢田町である。四条烏丸の交差点から南西にしばらく入った静かな町である。この町の中央に位置する京都市指定有形文化財の杉本家住宅の前には、道幅五〜六メートルの狭い道の中央に、山を置く位置を示した石が埋め込まれている。祇園祭の最中はここに伯牙山が置かれ、道路に面した杉本家の店の間は伯牙山の町会所としてお町内の人々に開放されるのである。

  江戸時代に呉服商として関東に進出していた「奈良屋」の京の本店であり、西本願寺の直門徒として、市中に五名しかいない勘定役も勤めていた京商人の代表格のお宅である。現在の建築は明治三年(一八七〇)の上棟であるが、その規模・様式ともに江戸時代の姿をほとんどそのまま伝えている。表通りに面して建つ店舗部とその背後の敷地に建つ居室部とを取合部でつなぐという、大店に多い形式、いわゆる表屋造の代表的遺構である。その姿を後世に末永く残すべく、平成四年(一九九二)二月に財団法人奈良屋記念杉本家保存会(杉本秀太郎理事長)が発足して、保存・活用が進められている。ここから現代の京都金融の中心地四条烏丸も近いにもかかわらず、この町に昔日の京都を思わせるような落ち着きのあるたたずまいが感じられるのは、会所としての杉本家が醸しだす美しい風情のせいであろう。その京格子に出格子、大戸、犬矢来、一文字瓦、そして厨子二階の蒸篭窓……などの雰囲気は現代人が忘れかけていた、かつての京町家の優雅な面影そのものである。戦前まではこの道の左右皆、このような町家が立ち並んでいたという。町並みは変わってしまったが、わずかながらも昔日の面影をたたえる家が今も残っているのを見るとうれしさを感じる。だからこそ、この家は祇園祭にとっても欠かせない家なのである。

  祇園祭に限らず、祭や年中行事がある時には町家はとりわけ美しく見える。また、大戸を開けて綺麗に商品を並べた店に、客が次々出入りする姿も町家を活気づかせる。町家は人々の生活とともに生きているのである。私たちの町家探訪の旅は、そんな活き活きとした、なおかつ芸術的にも美しい家を捜し求める旅であった。ご当主様や、町の方々からいろいろなお話を伺いながら拝見するのも楽しみであった。それは町家が生きていると感じる瞬間でもあった。これからも、私は生きた町家の姿を求めて旅を続けたいと思う。

  最後に、本書をまとめるに当たり、取材にご協力下さり、数々のご教示を頂きましたそれぞれのお宅のご当主様はじめご家族の皆様、地元自治体の教育委員会等の関係者の皆様にこの場を借りて厚く御礼申し上げます。また、出版に当たり数々のご提案・ご協力をいただき、誠実にここまでまとめ上げて下さいました、担当の永井美保さんと、出版をご快諾・ご援助下さいました学芸出版社社長京極迪宏氏に厚く御礼申し上げます。

  平成十一年三月
藤島幸彦


学芸出版社
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