建築新人001/建築新人戦オフィシャルブック


建築新人戦とは

竹山聖[建築新人戦2009 実行委員長/建築新人戦2010 審査委員長]

 「この秋、京都で学会のアーキニアリング展が開かれる、この機会になにかやりましょうよ」という遠藤秀平さんの声かけではじまった「建築新人戦」は、企画開始7月、応募締切8月、展示開始9月、本番10月というジェットコースターのようなスケジュールでその初年を終えた。企画草創期に立ち会えた者として、ここに歴史を記録しておくこととする。
 2009年7月15日、京都は祇園祭の宵々山に街が浮かれている頃、北大路沿いの居酒屋に関西の大学で教鞭を執る建築系教員の面々が集まった。関西の建築学生を活気づけ、大学の連携を強めていくには、関西建築文化の興隆とは、夜の更けるにつれ議論は白熱の度を増した。遠藤さんからは各メンバーに「楽しく、継続性のあるイベントを事前に考えておいてください」という宿題メールが入っていた。内容は熱いが語りはクール、メールも同じである。
 学生新人戦のようなものを立ち上げてはどうかと提案したのは、確か私だったが、「建築新人戦」というネーミングは遠藤さんである。シンプルで良いネーミングだと思った。阪田弘一さんの手ですみやかに概要案がまとめられメールが回った。翌々日の遠藤さんからのメールで、私は「建築新人戦実行委員会委員長」を仰せつかったことを知った。さらりと一言こうあったのである。「事後承諾になりますがどうかご了解下さい」
 迎えた一時審査会、懸念した応募作品数も170を越え、ベスト16という最終審査選出も10倍を超える激戦という箔がついた。いかにも狙いすましたようなタイミングで仙台から槻橋修さんが神戸大学に移り、10月の本戦進行では「卒業設計日本一」で鍛えた手腕が冴えわたる。10月初旬の京都工芸繊維大学はときならぬ熱気に包まれた。
 さて「建築新人戦」とは一体何だろう。まずは継続、そして学生主体、これが集まったメンバーに共通する想いだった。場所は京都という街にこだわる考え方と各都市を移動していく考え方とがあったが、最終的に梅田スカイビルという地の利もシンボル性も備えた、願ってもない場所を貸していただけることになり、士気も高まった。学生たちが自ら企画し連携し広報も行い、これを教員が連携してサポートする、という体勢も築き上げることができた。未来の世代を育てる姿勢に賛同してくださる企業の存在も心強い。
 めざすところは、実は明快なのだ。志を同じくする学生や教員の交流が大学の枠を超え、地域の元気を育てる。それが、ひいては日本中の建築学生の夢と希望を生むことだろう。つまり未来の世代を元気づけたい、それだけだ。さらには、とここであまり風呂敷を広げるのにややためらいを覚えるのだが、思い切って言ってしまおう、将来はアジアにまでその波を広げたい。おそらくは学生も教員も、「建築新人戦」にかかわるメンバーはこんな気分を共有している。「建築新人戦」は、まだ産声をあげたばかりである。大きく健やかに育っていってほしい、と願うばかりだ。